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静かに目を瞑り、記憶の扉を開けて辿ってみますと、私が生まれた高知の奈半利という場所の風景が甦ってくるのです。
そして、3歳下の妹が生まれた頃が、どうも私の「意識」の原点ではないかと思えてくるのです。
ということは、私の「見るもの、聞くもの、触れるもの、味、匂い」が自己の記憶として意識化されはじめたのは、3歳ということになるようです。
父母の両親は東京に住んでいて、転勤先の奈半利で母が出産したため、母が入院中、私は父の同僚のお宅に預けられました。そのお宅には、普段もよく私と遊んでくれたお姉さんが二人いました。一体何日、そのお宅に預けられたか定かではありませんが、お風呂に入るときに、「一人でお風呂に入って、髪も自分で洗える?」と聞かれ、とっさに「洗える!」と応えてしまったのです。今までは、自分は耳を押さえて、息を止め、目をしっかり瞑って、お湯を注いでもらっていたのですから、さあ大変。
未だに、その時、初めて自分の頭にお湯を注いだ感覚を体感として覚えています。
意識と知覚は、セットです。
オムツが濡れたら気持ち悪いので泣いて知らせ、お腹が空いたらミルクが欲しいので泣くいて知らせます。泣けばお母さんがオムツを取り替えてくれて、食事を与えてくれます。オムツが濡れる、これは知覚。濡れたら不快、これは濡れたことに対する意識。そして、お母さんは、子が泣けば「どうしたの?」と近づいてきてくれます。
そうやって赤ちゃんのころから学習し、子供は育っていくのです。
私の場合、その、学習した当たり前の繰り返しが当たり前でなくなった初めての経験が、「一人で髪を洗う」という私にとって冒険的で危機的な行為だったようです。
それが、成された時の達成感は、幼い私の自信となり、これから自分の人生を歩んでゆく出発点だったのかもしれません。
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