「ルーブルで彫刻と遊ぶのは愉しい」
私自身が中学生、高校生の頃、理不尽な事柄や自己の解釈に私が違和感を感じる先生に対する批判は、結構意識に上げてぶちまけていた方です。高校生になると、段々と自分の方向性が見え始め、自分と他者を客観的に分けて考えられるようになってきました。そんなわけで、批判的な思いから湧きあがる感情は、だんだんと治まり、どうでもいいことになってきたように思います。
クラスメートの誰よりも世間を知っているかのような思いから、徐々に焦燥感とか孤独感へと変化していきました。
かといって、すべてが悲しくて、つまらないわけではありません。
嬉しい感情、楽しい感情も大揺れに揺れながら思いっきり体感した時期でもあります。
家庭生活という固定された環境の中で育まれた個性は、学校という新たに設置された家庭とは別の固定された環境に通う事で、何か自分の中で統合を図ろうとしていくようです。
統合を図ろうとする意志は、意識的、無意識的、双方に起こることです。特に無意識に起こる意志及び意思は、自己の統合するためのバランスを図っていくようです。
統合、つまり「理想と現実のギャップを縮める力」は、人が本来持ち備えているホメオスターシス(自然治癒力)が働いているので、必ずあるはずです。
こんな先生だったらいいのに・・・
こんな学校だったらいいのに・・・
この授業はサイテイ!
こういうタイプは大嫌い~!
このような批判は、決して不健全な批判ではないと思います。
健全な批判だと思います。
心のストレスをため込みすぎると、批判する力が欠けていくようです。批判力が低下すると、自分に起こったストレスをナントカしていこうとする思いにも欠けていくようにも思います。
批判することを飛び越して、他者に八つ当たりしたり、物を壊したり、暴力したりして、自分でも自分の情動と行為を止めることが出来なることにも繋がるように思います。
大いに怒って、大いに文句タラタラ、、、良いじゃないですか。
自分の「こうありたい姿」が見えている証拠です。
「文句タラタラ」の話を、否定も肯定もせず、そのまま傾聴し続けるとそのうち、本人に軌道修正のための統合する意志が起っていくようです。
答えは自分の内にあるのですから。
人は死にゆく瞬間まで成長し続けるそうです。
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