遅ればせながら読んでいる「利休にたずねよ」は、実に勉強になっています。この一週間で単行本がボロボロになっています(笑;)何故ボロボロになるかは、小説を既に読んでいらっしゃる方には頷いていただけるはずです。
出版当初に読もうと思っていたのですが、平家物語の勉強をしていたため頭の中に時代を移行する余裕が無く、後回しにした本の中の一冊です。
利休と同じ時代に長谷川等伯、狩野永徳がおり、美術界の繁栄華やかな頃であったとも云えそうです。
信長から秀吉へ政権が代り、派手さ極まる一方、茶の湯の表現が、それに対抗するように侘びと寂を求めて美の体系を創造していった時代であるとも云う事ができると思っています。
利休の最初の茶の湯の師匠は北向道陳(きたむきどうちん)。利休17歳の時。
その後、19歳から武野紹鴎に弟子入りします。
弟子入りと謂うからには、起きてから寝るまで、つまり一日中茶の湯の習いであったのでしょう。
道陳は足利義政の同朋衆であった能阿弥から茶を伝授されたそうです。その頃は唐物を中心とした晴れやかな茶の湯だったと「利休にたずねよ」には書かれてあります。
武野紹鴎は武具商人で侘び茶の名人。
伝統的手法と、いまようの侘びを習った利休が探究し続けた茶は、利休という一人の人間を通して独特な世界観をつくりあげていったわけです。
「形式」から一人の人間が解釈し成していくことは、形式があればこそあからさまに見えてくるものかもしれません。
習う師は、師であることには変わりありませんが、自分の中で習い解釈し、成していくということは、自分の身体と心と魂を通さなくては自分の身についていくことと同じことだと思うのです。
誰にも侵入できないのは、他者の心であり身体です。
利休のようになりたいと願っても、自分は自分です。
西行のようになりたいと願っても、同じく自分は自分であるのです。
修業を積むということは、自分に身につくものをひたすら求めることでもあるようにも思います。
それが出来る、出来ないかが、才能の分かれ道にもなっていくのかもしれません。
いくら持っている素地に光り輝くものがあっても、それを使いこなす自分自身が、自分の心と身体を大事にしない限り、持っているものを身につけることはできないはずです。
利休と関わる他者が語る利休を描いた「利休にたずねよ」は、面白い視点であり、言葉では語りきれない利休という人物を窺い知るには相応しい小説です。
歴史流るるなか、気鋭の人物が現在を生きる私達の指針にもなったりします。
であれば、歴史が重なれば重なるほど、自分が指針とした歴史的人物を学ぶ機会に恵まれやすいのですから悟りを得る人が多いのでは?と思ったりもしますが、赤ん坊から大人になるまでの成長期は、そんなに単純なものではないようです。
まずは自分の生育史から受け容れていかないかぎり、習うことは全て絵に描いた餅に過ぎなくなることを忘れてはならないな、とつらつら想うのです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。しかも物理的には一人で生まれ一人で死んでいくのです。
「人は皆平等である」という言葉の所以がそこにあることに自らがはたと気付く日がくると、自分の役割に辿りつくかもしれませんし自分の本音の情動に気付くかもしれません。
:::
11月10日から16日まで有楽町交通会館ギャラリー1Fパールルームにて「表導会50展」を開催しております。銀座にお越しの際、お立ち寄りいただけると幸いです。日本の文化の象徴である掛け軸や屏風を身近に感じて頂きたいと願っております。
私は「池養右軍鳶」を表装しております。
クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
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出版当初に読もうと思っていたのですが、平家物語の勉強をしていたため頭の中に時代を移行する余裕が無く、後回しにした本の中の一冊です。
利休と同じ時代に長谷川等伯、狩野永徳がおり、美術界の繁栄華やかな頃であったとも云えそうです。
信長から秀吉へ政権が代り、派手さ極まる一方、茶の湯の表現が、それに対抗するように侘びと寂を求めて美の体系を創造していった時代であるとも云う事ができると思っています。
利休の最初の茶の湯の師匠は北向道陳(きたむきどうちん)。利休17歳の時。
その後、19歳から武野紹鴎に弟子入りします。
弟子入りと謂うからには、起きてから寝るまで、つまり一日中茶の湯の習いであったのでしょう。
道陳は足利義政の同朋衆であった能阿弥から茶を伝授されたそうです。その頃は唐物を中心とした晴れやかな茶の湯だったと「利休にたずねよ」には書かれてあります。
武野紹鴎は武具商人で侘び茶の名人。
伝統的手法と、いまようの侘びを習った利休が探究し続けた茶は、利休という一人の人間を通して独特な世界観をつくりあげていったわけです。
「形式」から一人の人間が解釈し成していくことは、形式があればこそあからさまに見えてくるものかもしれません。
習う師は、師であることには変わりありませんが、自分の中で習い解釈し、成していくということは、自分の身体と心と魂を通さなくては自分の身についていくことと同じことだと思うのです。
誰にも侵入できないのは、他者の心であり身体です。
利休のようになりたいと願っても、自分は自分です。
西行のようになりたいと願っても、同じく自分は自分であるのです。
修業を積むということは、自分に身につくものをひたすら求めることでもあるようにも思います。
それが出来る、出来ないかが、才能の分かれ道にもなっていくのかもしれません。
いくら持っている素地に光り輝くものがあっても、それを使いこなす自分自身が、自分の心と身体を大事にしない限り、持っているものを身につけることはできないはずです。
利休と関わる他者が語る利休を描いた「利休にたずねよ」は、面白い視点であり、言葉では語りきれない利休という人物を窺い知るには相応しい小説です。
歴史流るるなか、気鋭の人物が現在を生きる私達の指針にもなったりします。
であれば、歴史が重なれば重なるほど、自分が指針とした歴史的人物を学ぶ機会に恵まれやすいのですから悟りを得る人が多いのでは?と思ったりもしますが、赤ん坊から大人になるまでの成長期は、そんなに単純なものではないようです。
まずは自分の生育史から受け容れていかないかぎり、習うことは全て絵に描いた餅に過ぎなくなることを忘れてはならないな、とつらつら想うのです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。しかも物理的には一人で生まれ一人で死んでいくのです。
「人は皆平等である」という言葉の所以がそこにあることに自らがはたと気付く日がくると、自分の役割に辿りつくかもしれませんし自分の本音の情動に気付くかもしれません。
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11月10日から16日まで有楽町交通会館ギャラリー1Fパールルームにて「表導会50展」を開催しております。銀座にお越しの際、お立ち寄りいただけると幸いです。日本の文化の象徴である掛け軸や屏風を身近に感じて頂きたいと願っております。
私は「池養右軍鳶」を表装しております。
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