五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

源氏物語のみどころ

2009年08月15日 | 第2章 五感と体感
日本人のアイデンティティを真面目に考えるときに都合のよい資料は、源氏物語です。

海外に流出した源氏物語絵巻は、バラバラにされ、オークションにかけられ、自称日本通といわれるコレクターのリビングに飾られたり、図書館に保管されたりしています。
身を切られたような絵巻の中でも、外国人に見向きもされないものや理解されないものがあります。見向きもされないものは「末摘花」。そして、人物像として理解されないものは「夕顔」。

末摘花は、ブスで鼻が鉤鼻で、しかも学問好きの頑固者で、融通が利かない。
夕顔は、物語の中でほとんど顔が見えない。自己主張する場面がほとんどなく、そうは言いながらも夕顔をとりまく人間関係と夕顔の娘の玉葛の劇的なシンデレラストーリーは、皆さんの知るところです。
そうそう、あと忘れてはならないのは、花散里、彼女は、ふくよかなお母さんタイプで、光源氏のカウンセラーでもあります。彼女も海外では人気が無いらしい。

華やかで波瀾万丈の人生を送りながら自己実現を確実に遂げていく女性たちとは違って、どこか不器用で要領が悪い。。。しかも抑圧気味で、自己表現が下手。
それでも、紫式部は、彼女たちの良さをしっかりと表現しています。

海外では、そんな女性は受けないようです。

逆に、日本人である私は、源氏物語を全て読み上げた末に、ふとした時に心に湧き上がってくる女性たちは、この不器用な女性たちなのです。

自己投影を考えるとき、彼女たちがけっこうしっくりしたりします。

オマケ☆
講座生のみなさまへ・・・源氏物語:岩波文庫・山岸徳平の訳源氏物語は、原文に主語と句読点が付けられており、読みやすいです。多くの作家が源氏物語訳に挑戦していますが、それらと合わせて山岸先生の本を読むと、勉強になります。

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最悪感・・・

2009年08月14日 | 第2章 五感と体感
昨日、亡霊デビューの話を書いたら、「物おじしない人だ」と友人からコメントを頂きました。

物おじ・・・という言葉、久しぶりに聞きました。

確かにどこに行っても「物おじ」はしないけれど、緊張とアンテナ張りと気遣いは人一倍しています。

幼い頃に環境の違う場所への引っ越し体験が今のこんな私を成り立たせていることは間違いないのですが、昨日ふと、テレビ番組「夏目漱石の引きこもり」を見ていて、思い出したことがあります。
それは、海外体験です。何年も海外に住んだ経験はありませんが、一か月から半年近くまでの遊学の経験はあります。アジアやインドを旅しても感じたことはありませんが、20代前半のニューヨークは、自分の方向性を考えなおした良い経験です。

ニューヨークで、方向性を変える決意をして帰国し、もっとどん底の「最悪感」を味わいました。夏の暑い8月、引きこもりに徹しました。24年前の日航機の墜落事故の年です。

「これから、どうしようか・・・」

誰も助けてくれないし、ましてや、親に自分の気持ちが分かるはずもなく、友達だってアテにはできない。みんな自分のことで精一杯です。

結局、私が体験した人生の「最悪感」は、この「物おじしない」に繋がっているようです。
「最悪感」の経験は、生き抜くための栄養分。

夏目漱石さんもそれを味わったからこそ、自分を再構築して個性化をより確たるものにできたのよね。。。

最悪感をしらなきゃ、最高の幸福感にも至らないかも・・・

人生は一回きりです。


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亡霊デビュー

2009年08月13日 | 第2章 五感と体感
能楽のおはなしです。

玉葛を稽古しています。
源氏物語に登場する玉葛の亡霊がシテ。それを私が謡います。
僧侶がワキ。これは先輩が謡います。

地謡で引っ張ってくださる師匠とワキの先輩。

シテとワキのバランスが、今回は、ちょっと変です。
能楽の舞台デビューの私がシテなんぞをやっているからです。

ワキの僧侶の方が、ドスが聞いていて、カッコ良い。
本来ならば、シテの亡霊の方が、深く切なく安定したスローな謡いで表現すべきなのですが、集中力が切れると鶏の首を絞めたようなうわべだけの声が、足を引っ張ります。

「すみませんねーー、なにしろシンマイ幽霊なもので・・・

久しぶりにシンマイ気分を味わうことを楽しんではいるのですが、初めての亡霊役なもので、富士急ハ○ランドのお化け屋敷の冷や汗を思い出し、いやはや・・・

師匠は、「自分が謡ったときに感じる違和感を感じればいいのよ」と、言ってくださいます。
この言葉、どこかで聞いたことがあるような。。。

今度は心理学のおはなし。
自分が感じる違和感。そこに自分のスケールがあって、「好き」か「嫌い」かを判断していきます。
とっさに判断する原初感情。。。これは、ヒトが長い間かけて培ってきた生き伸びるための判断力です。
だから、「違和感」は、自分の感情を見つめるよいチャンスのようです。
他人に違和感を感じたとき、相手を非難する前に、自分の感情を見つめる方が道が開けるかもしれません(防衛機制の勉強ができます)

稽古が終わり「シンマイ幽霊さん、がんばってねぇー」と師匠に見送られ、夜道を幽霊気分で帰宅したわたくしでございました

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次の一歩

2009年08月12日 | 第2章 五感と体感
ここに至るまで、丸7年かかったかなぁ~

「暮らしの中のカウンセラー養成・生き甲斐の心理学」の通信教育や勉強会を継続させていくために試行錯誤して、あっと言う間に7年が過ぎちゃいました。
この通信講座は9月で23年目に入ります。

この学びに自分の感性がピタッとはまった方は、長く長く学び続けて、ワークショップに参加することで、ますます親交を深めています。ここ三年は、MIXIやブログ私たちの絆を深めてくれています。ありがたいことです。

私は「シャケの川上り」と勝手に命名しているのですが、100人の方が通信講座を始めても、「三級」という任意資格を取られる方は、5%もいらっしゃいません。

その中で、論文を書き、次の二級に挑戦する人も、5%の更に5%です。

どの世界でも同じことが言えます。

必要があって勉強される方、人に薦めらて始められる方、いろいろですが、始めるきっかけが何であっても、次に必要なのは、「自分が学びたい!」という渇望とも云える意思です。
この「意思」は、他人が薦めて芽生えるもではありません。

同時に魅力ある勉強会を試行錯誤する世話人の師匠の努力も大変なものです。

数年かけて珍コンビとなった師匠との体制作りは、これからも継続ですが、次の世代に引き継ぐために、架け橋となっていくのが私の仕事です。

7年かけて一区切りつき、頭の中がニュートラルになった感じです。
さてさて、次の発進に向けて、そろそろエンジンをかけようかな、、、そんな夏を過ごしています。
そんな夏の今日この頃、いろいろなお手紙やお知らせを頂いています。
これから自分の道を一歩進まれる方々に、この場を借りてお祝い申し上げます。

次の一歩、ともに宜しくお願い致します。感謝をこめて

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ポー川の光 〝映画〟

2009年08月11日 | 第2章 五感と体感
岩波ホールに20年ぶりに行きました。映画の神様が宿る場所は改装されましたが、以前の風情が残されており懐かさが溢れました。

邦題は「ポー川の光」。イタリア語のタイトルを直訳すると「千の釘」。私の解釈だと「千の罪」。

キリスト教文化の中で、二千年というアイデンティティから育まれた、ひとりの表現者(映画監督)が最愛の情をもって、映画人生を締めくくった作品です。本質的真実を語ったフィクション(寓話)でした。
人の本質を自問自答し、哲学が生まれ体系化され、そのうちイエスキリストが出現します。それが、その地に住む人々の血となり肉となっていくわけですが、人には与えられた個性の美があり、それを生かし、強化していくことで、ますます個性を発揮していきます。

映画の内容からくみ取れる問いかけは、シリアスなものですが、ユーモアは欠かしていません。さすが、です。
人間らしく、その人らしく生きていくことに言いわけなんてありません。

物語は、将来を期待される有能な若き教授が、修道会の図書館に所蔵されている大切な書物を取り出し、床や机に散乱させ鉄の釘で打ちつけ、失踪するところから始まります。

散乱した本は、まるでインスタレーションのようで、知らせを受けその光景を見た女性刑事は、感嘆します。

失踪し、大河に辿り着いた若き教授は、ポー川のほとりに住まう不法占拠者の人々との交流で、本質である愛を、生身の体で体感していきます。そして、千年、二千年という時空を超えて、本来の人間のあるべき姿を改めて問いただそうとします。

映画の終盤・・・
自分の行った行為に対し、「責任は取るが罪は犯していない」言い、
自分はある組織の会員であることを淡々と強調します。その「ある組織」を聞き、警察官もハッとします。

最後のシーン・・・
主人公は自分を育ててくれた司教が本を触りうずくまる背中の肩に触れ愛を伝えようとしますが、司教はは床に置かれた本に気を向けたまま、彼の想いを受け取ろうとはしませんでした。
このシーンは、映画全体を捉えた象徴的なシーンです。

「愛とは何か」

二千年という時間をかけて、「愛」について、どのくらいの書物、文章が書かれたのでしょう。。。これだけ書かれても、まだまだ書ききれないはずです。

自由意思を与えられた「ヒト」。
信じて見えてくるものには意味があります。それを大切に生きていきたいものです。

ブログ、長くなってスミマセン。。。携帯で読まれている皆様、ここまで読んでくださりありがとうございました

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親から言われたくない言葉

2009年08月10日 | 第2章 五感と体感
子供に向かって、「あなたのために言っているのよ」とか、「ほら、私が言ったじゃない!」

私の経験上、親から言われるワースト3に入るセリフです。

「あなたのため」は、「自分のため」

私が言ったことが正しいことを、他人の言葉を使って自分を正当化する。。。
親という権威を使った、子供への残酷な言葉です。

子供は、親の言葉の傾向を充分承知です。
言われることへの不快感は、不安感へとまっしぐら。。。
不安感が積み重なるとどうなるでしょうか・・・

親、母親、父親、という主語よりも、「私」を大切にしたいものです。

夏休みも中盤に入りました。お盆にはいり、ご家族の夏休みでお母さんは、てんてこ舞い。。。「私の夏休みは、いつよ!!」という気持ちはお察しします。私も同じですから

何かを子供に伝えたかったら「私の感情」を伝えたほうが、素直に伝わるように思います。
たとえば、勉強していないように見える子供にイライラしているのであれば、そのイライラした感情を伝達したほうが、歪まずに伝わります。

過去や未来を咎めるよりも、「今、このときの私の感情」を伝達し合うことが大事なことです。

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身体と心の点検

2009年08月09日 | 第2章 五感と体感
身体は不思議です。私の意識・無意識に関係なく、何かの異変が起こると「身体」という主体が危険信号を発し、そのなかで点検作業を行い、良くなる方向へと戦い、時には危険信号を発信してくれます。それでもだめなら、症状として表れてきます。

先日我が家のメンテナンスをしてくださったペンキ屋の社長さんが一昨年心不全で倒れ、入院した時の話をしてくださいました。
倒れる数日前から胃が痛かったそうです。でも、それは、胃ではなく、心臓だったのです。胃が痛いと解釈し、胃薬を飲んでいたそうです。

「自分は心臓が悪いわけがない」という思いこみが、勝手に心臓ではなく胃だと解釈してしまったようです。

私の四十肩もそうです、身体の中を整える作業を「私」というか「私の身体」が一所懸命動いてくれていたようです。常に右肩、右手に物を持ち、バランスよりも持ちやすさ優先で暮らしていました。確かにこれではまずいな、とは心の奥底で感じながら、小さなキャスターでも買おうかな、、、という思いもよぎっていました。

危険信号を無視して、このところ真面目に通っていた太極拳や謡いの稽古が、身体の調整を促し、詰まっていたところが一気に爆発した、との解釈へと至りました。

「正中線」(身体の芯)を意識し、動くことで出てくる膿。。。

人物を絵にしたり彫塑、彫刻にするときも、この正中線が崩れていたら、「ポニョポニョだらり」です。人が見て「変だな」と思うわけです。

「変だな…」その直感は、意識化の扉なので、そんな時は、身体の点検だけでなく、心の点検もしてみましょう

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揺れ揺れの思春期

2009年08月08日 | 第2章 五感と体感
「私は何のために生きているんだろう?」

「私のやりたいことって、いったい何なんだろう?」

「死んだらどこにいくんだろう?」

おる日突然、自分と他人との距離に違和感と遠さを感じたときに、自我と向き合うチャンスがやってきます。
そのチャンスが到来すると、上記のような自分自答が自然と湧いてきます。

「自我の目覚め」と「孤独の気づき」です。

この自問自答の時期が人によって違ったり、大人になるまで訪れなかった人達がいることに、心理学の学びの中で初めて知ることとなりました。
私が10代から20代にかけて、あれだけ揺れたのに、それを経験していない人がいることに驚きました。
美術の勉強をしていた私の周りには、悩み揺れる友達の存在は当たり前でしたし、現実吟味力欠落者もたくさんいました。もちろん、私もその中の一人で、「食っていく術」を身につけるよりも、あらゆるジャンルの本を読み、小難しい演劇や舞踏を観たり、ジャズ喫茶に入り浸り、コンサートにも頻繁に足を運び、旅もしました。でも、そうやって生活しなくては、自分は生きていけなかったら、ある意味、「生きる術」はそこで学んだのかもしれないな、と思います。

そんな中で、生きることを選ばなかった人も数人います。
自殺や不摂生な生活で体を壊したり・・・

こうやって、ゆらゆらしながら生きてきた私は最近「食っていく術」と自分の「生き方」は、年を経るごとに段々と交わってくと思うようになりました。

自分がなりたいイメージが、自分を成り立たせていきます。

「揺れ揺れの思春期」
いったい何歳の人に「思春期」と当てはめるのかはわかりませんが、50歳になっても80歳になっても、自我の目覚めと孤独感に揺れてみるのも無駄じゃないのでは・・・?

生きていると、いろんなことに出合うのよ。それでいろいろな感情を体験するのよ。それが生きている証拠なんでしょうねぇ。

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錯乱状態を静める

2009年08月07日 | 第3章 無意識の世界
突発的な事態が起こった時に、その瞬間自己に湧き出す感情を思い出してみると、自分の傾向、個性がよくよくみえてきます。

予期せぬ出来事は、自分との関わりの度合によってずいぶん違います。

世間で起きた予期せぬ出来事。
身近な人に起きた予期せぬ出来事。
家族に起きた予期せぬ出来事。
自分に起きた予期せぬ出来事。

世間で起きたことが、まるで自分に起きたかのように不安にかられたり、
自分に起きていることなのに、まるで他人事のようになったり、
あまりのショックで、口に出せなくなったり、あるいは自分のプライドが傷つくことで、周りに当たり散らしたり、、、

自分の身に起こったことで錯乱している人がいたら傍に居る人が、ひたすらひたすら黙って聞くことで、だんだんと自分の意識が感情の錯乱から解釈へと繋がっていくはずです。

答えは自分の内に必ずあります。
でも、ひとりではなく、傍にいる人の存在が自問自答を促すはずです。

良いとか悪いとか、そんなことは、人によって解釈はまちまちです。。。
倫理道徳による概念ではなく、
自分の傾向を知っておくことは、自分の身を助けます。

地球上の65億のヒトは全て違う個性を持っていますが、ヒトとヒトとの繋がりでヒトは生かされていることも忘れないようにしたいものです。

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これだ、と思った瞬間

2009年08月06日 | 第2章 五感と体感
人生は、回り道、寄り道するためにあるような気がします。
何も経験しないうちから、自分にとっての「ほんもの」に出合うことは、稀なことです。出合ったとしても、それで満足して自分の動きを止めてしまうことはできません。時間は未来へと繋がっているのですから。

自分の憧れの世界を衛星のように回り続けて、ようやくその中に入ることができたとき、自分の今までの経験は、このためにあったのかな、と思えたりするものです。

何かを信じて今を生きていくことは、いずれ死にゆく自分の体を慈しむための大切な儀式でもあります。
他人のためではなく自分のための人生です。

天を仰ぎ、自分の内から通る声は神との対話となって、また自分の身体に戻ってきます。戻ってきた自分の声は、心と魂を一瞬、一つにします。

心と魂と体の一体感という喜びを知っている人ならば、生きる力はあるはずです。

仏様に手を合わせ、神様に手を合わせ、ひとつの体を預かっている自分が魂をどう捉えていくか、そのことを考えていくと、自分の中にある答えに行きつくように思います。

「これだ、」と思える自分の喜びを見つける過程を大切にしていけば、必ず体感する時がくるはず・・・


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性格が暗い、明るい、

2009年08月05日 | 第1章 意識と知覚
昨日は四十肩発症のため、しょうがなく自制して自宅謹慎の一日を過ごしました。
そんなわけで、夏休みの期間中にせねばならない書類の整理をしました。

書類は山積みになるばかりで、整理しなくてはただのゴミです。
気になりながらも、次から次へと作成しなくてはならない書類に追われる日々。
ようやく、整理のチャンスがやってきたというわけです。

一年を振り返り、改めて人の内在する「よき方向に向かう傾向」に、「ヒト」がただ子孫を残すためだけではく、「生きる意味を考える生き物」であることをしみじみと思いました。

「身体の不調は、何かの啓示です。
今までの自分を多少反省しつつ、今度は良くなるように努力あるのみ。
反省してもしょうがないです。」
と解釈する私は、防衛機制で言うと「昇華」に当てはまるようです。

性格が明るいか暗いか、と問われれば、「明るい」と答えますが、厳密に言うと、いつも明るいわけではなく、「解釈が前向きで明るい傾向である」と言ったほうがしっくりきます。

かといって「解釈が暗い」ことが悪いことではありません。自分を卑下するのではなく、自分の傾向である「個性の美」と向き合うことのほうが大切です。

こんな自分をどう扱っていくか、、、それには、まずは自分の傾向を知ることからかな、と思います。

突発的な出来事で、自分が感じることを意識してみることは、自己の傾向を知るよい機会です。

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四十肩

2009年08月04日 | 第3章 無意識の世界
家の外構メンテナンス、足場が外れようやく落ち着いたと思いきや、今度は自分の体をメンテナンスしなくてはいけない事態に(×へ×;)

昼から出掛け、いくつかの用事を済まし過ごしているうちに、みるみる右肩が痛くなり、握れなくなってしまうくらい。。。自分の腕の重さに耐えきれず、左腕で支えて帰宅。。。トホホ・・・

四十肩(五十肩目前!)や椎間板ヘルニアを経験しているので、この不穏な状況に危機感を抱き、頼りにしている近所のヨロズ先生(何でも診てくれる)に駆け込みました。

肩関節周囲炎。。。やはり、四十肩。。。トホホ。。。

ブログが書けるくらいなので、生活には支障ありませんが、腕が上がらず不便です
家族が不在の日だったので、夕食は気楽にラーメン屋さんでタンメンを頂き、女主人と四十肩体操の仕方の話題で盛り上がり「右肩の次は、左肩よーー、」と脅かされ帰宅。

暫くは、この痛みと付き合いながら、しょうがない、、仕事仕事。。。

夏風邪に気をつけなきゃ!と気を付けていたのに別のところに表れるとは

ま、人生、こうやって思いがけないことの繰り返しだわね

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どんなときに幸福感?

2009年08月03日 | 第2章 五感と体感
「自分の幸福感を検証する作業」と書くと、なんだか堅苦しいので、「あなたは、どんなときに幸福感を感じるか?」という言葉に置き換えてみます。

愛すること、愛されること、
慈しまれること、慈しまれること、
大切にすること、大切にされること、

どの言葉が読まれる方の体感に肯定的にしっくりと響いてくるか、それは人によって違うはずです。
でも、この際、「照れ」を捨てて、自分の心の中だけで想いを巡らしてみるとよいかもしれません。

不快感を感じる人もいるかもしれないし、幸福感に直結する人もいるかもしれません。

でも、「愛する愛される」体感とか記憶や概念は、自分との向き合い方、扱い方に繋がっていくし、同時に自分以外の人との付き合い方にも繋がっていきます。

特に「他人の幸せ」に巡りあった時に感じる自分の防衛機制(昇華、嫉妬、退行、同一化、知性化、置き換えなど)の観察は面白いものです。良くも悪くも自分の「幸福感」と「愛する愛される」体感的な記憶や概念が蘇ってきます。



さて、、、どんなときに幸福感?

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装いは自己表現

2009年08月02日 | 第2章 五感と体感
18才くらいになれば、身体は立派な大人です。
「ヒト」は、それだけでは「オトナになる」とは言えません。

会社の研修会に短パンとビーチサンダルでいらした方がいたそうです。
会社側は、自由な服装で参加してください、と社員の方々に伝えたそうです。

それで、ビーチサンダルでいらしたわけです。

服装は、個性が表れます。着る服は、自分の精神状態にも影響します。

私自身、きっちりした服装は苦手です。でも、自己否定、他者否定しがちな傾向の方々とお会いする機会が多い日常なので、相手に不快感を与えそうな服装にならないよう気を付けています。

私が中学2年生の時に担任だった先生を思い出すと、今だに吐き気をもよおします。何がダメだったかというと、口紅の色です。彼女はどんなときでも真っ赤な口紅をたっぷり塗っていました。しかも唇が厚い。。。今から思うと音楽の先生だったので、彼女の自己主張がその赤い口紅に出ていたのかもしれませんが、私にとっては気味の悪い人物にしか見えませんでした。
14歳の「ヒト」の美的感覚を損なう危機的な状況でした。

「装い」は自分を表現する一番身近な道具です。

平素は綿素材のダラリとした服装の私ですが、場所によっては、まったく違います。でも、どれもこれも「私」の表現です。

「私」を表現したくてビーチサンダルで会社の研修会に参加された方。。。
「くそ暑い中、こんな研修会、行きたくないのに!!」、きっとそんな思いの表れなんでしょうねぇ。。。
ビーチサンダルを当たり前のように履いてこられたのであれば、そちらの方が大問題のような気がします。無意識の中での判断力に欠けているわけですから。。。
「研修会に否定的なアピール」を意識している方であれば、健全だと私は解釈します。

適材適所で「オトナ」を演じるのも「ヒト」の修行のひとつです。
湧きだす感情大切にしながら理性で抑えることが上手にできる「ヒト」になりたいものです。

これがなかなかできないから、「ヒト」は悩み深い生き物なのかもしれません・・・
たまには、ビーチサンダルでプチ反抗するのも「生き抜く力」かな?

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謡いの稽古

2009年08月01日 | 第2章 五感と体感
もう八月です。

今日は、能の合わせの稽古がありました。
始めて間もない私は、人と合わせる稽古は初めてです。

八月下旬の発表会に「玉葛」を謡います。

私は、恐ろしいことにシテを謡います。知らぬが仏、、、とはこのことで、とんでもないことに手をつけ出したことに、だんだんと気付き始めてきました。

そうはいっても、地謡で皆さんと声を合わせ、自分がなんとかついていけるようになると、なんとも気持ち良い体感が身体に広がります。
もともと、低くて、通り易い声をしている私。か細い声で、静かに話す方を羨ましいと思っていました。でも、自分の持って生まれた声に合う「謡い」に出合い、声に対するコンプレックスが一掃されつつあります。

どうなることやらの初舞台ですが、能は観るよりもやるものだ、ということがこれも徐々に分かりつつあります。
祖先から受け継がれた記憶が呼び覚まされたような気がし、どこか遠くから自分の体を動かされているような感覚になります。

夏は謡いであっという間に過ぎてしまいそうです。楽しんじゃいます。

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