五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

ゆるキャラと文化人類学

2013年11月11日 | 第2章 五感と体感
昨日から始まった作品展は、有楽町の交通会館での開催です。
有楽町駅目の前でもあり、銀座の最寄り駅でもあるのですが、朝早くから人出が多いので驚きました。

JR有楽町駅前を通りかかると、「愛媛県」ピーアールイベントが開催されており、そこではミカンのキャラクターが人々の目を引き、写真撮影の人だかりです。

しかも交通会館の中には北海道を中心に、東北や滋賀等の「県」のサテライトショップが数多く入っています。

ここも朝10時には人がいっぱい。

ゆるキャラ文化に喜ぶ人々の表情を眺めていると、日本人固有のトリックスターが見えてくるのです。

もちろん、私も横目で眺めながらも心が和むこともあります。

どの国の祀り事にも面をつける文化は継承されています。
それが鬼であったり、神であったり、動物でであったりと様々です。

人の変身は、森羅万象の畏敬や不安感の克服の願望と比例しているようにも思います。

翁や天狗、そこからおかめひょっとこ、なまはげ、、、その地方の文化から生まれたキャラクターは、固有の進化を生んでいきます。

情報網が発達した昨今、「ゆるキャラ」という独特な文化は、「ご当地」という括りでは無く、今や「日本人の傾向としてのトリックスター」であるといっても過言ではないように思います。

ゆるキャラから見えてくる文化人類学的考察による比較文化論で学問が成立するのも時間の問題でしょうね。

:::
11月10日から16日まで有楽町交通会館ギャラリー1Fパールルームにて「表導会50展」を開催しております。銀座にお越しの際、お立ち寄りいただけると幸いです。日本の文化の象徴である掛け軸や屏風を身近に感じて頂きたいと願っております。
私は「池養右軍鳶」を表装しております。

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笑う

2013年11月10日 | 悔いのない人生とは?
インドでは「笑うヨガ」もありますが、その通り、「笑い」は人の気を一気に陽の方向に巡らせる一番の方法です。

自分の表情は、いつもどんな風に他者に見られているのでしょう。

辛そうな表情だけでなく、フィルターがかかったような表情をしていたり、自分の意識と自分の身体が別々になっているような表情をしていたり、つまり、「私は私である」という意識が見えない表情は、ほんとうにお気の毒だなぁ、、、と、思います。

目は口ほどにものを言う

まさにその通りだと思います。

自分はおかめやひょっとこみたいな道化師みたいだ、と思っていても、お愛想を振りまく八方美人だと思っていても、自分の表情を自分なりに解釈し意識出来る状態であれば、私が私であることを意識できている証でもあるように私は思っています。

自分の顔の表情を時々鏡で見ることができることも、健やかさのバロメーターであるようです。不健康であると自分を鏡に映したく無くなります。

鏡で自分を見過ぎると、ナルシスのようになってしまうかもしれませんが^^;
自分の皺一本が醜さの概念に繋がってしまうのもどうかと思いますが^^;

せめて朝の出掛けに鏡を見て口角を上げにこりとするだけでも、一日が違う、かも、、、

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11月10日から16日まで有楽町交通会館ギャラリー1Fパールルームにて「表導会50展」を開催しております。銀座にお越しの際、お立ち寄りいただけると幸いです。日本の文化の象徴である掛け軸や屏風を身近に感じて頂きたいと願っております。
私は「池養右軍鳶」を表装しております。

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お好きなように

2013年11月09日 | 第2章 五感と体感
「あなたの好きなようにやりなさい」

という親の言葉には、いろいろな意味が含まれていることを子供は解っています。

「好きなようにやれと云われても、どうせ自分の好きなほうを選択してもあとからごちゃごちゃ言うのよね。。。」
そんな思いが湧く子供心を大人の私も子供の頃経験済みなのでよくよく理解できます。

「どうせ。。。~なんだから」
という言葉が出る事は、親に育てられている過程においての「うちの傾向、お父さんの傾向、お母さんの傾向、自分自身の傾向」を解釈し概念を持っている証拠でもある言葉のように思います。そこから防衛機制を推察することができることもあります。

目標の図式、つまり自己実現のイメージや自分の柱となっているものが見えないと選択することへの信じる力もあやふやになります。

日々、自分の大きな柱がゆらゆらしていると、「好きなようにやりなさい」の中にある柱もゆらゆらしていて見えにくくなります。
「好きなようにやりなさい」と言う前に「自分の最良の思い」を親が表明しておくことも大事なことであるように思います。

柱がいつもゆらゆらしていたら、育てる相手の選択する力も育たないように思います。

もし、「自分が最善であると信じているの思い」に揺らぎがある中で「あなたの好きなようにやりなさい」と言っているとしたら、その言葉を受ける相手も同じように揺らぎの中で苦しむことに成りかねません。

「お好きなように」と言う前に「私は何を望んでいるのか」を考え巡らすことがとても大事なことのようです。

無から有は生まれませんよね。。。

柱があるからこそ、反発したり、隣の芝生が青く見えたりしながら自分の中に「こうありたい私」が芽生えてくるものなのかもしれません。比較することから自分の答えも見えてくるのですから。。。

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覚悟と怖れとギリシャ神話

2013年11月08日 | 第2章 五感と体感
覚悟を持つと怖れの感情が軽減します。

怖れていると覚悟が定まりません。

自分が何に怖れているのか、何と向き合うのが怖いのか、これがすんなり意識化できたらきっと悟りが開ける?のでは、と思うくらい難しい問題のように感じています。

怖れていることと対峙することを怖れていると、何処か矛先の違う方向に何らかの感情をぶつけ、行動を起こし、それに見合う言い訳を考えていくように思います。

この時の言い訳が自分の怖れをますます意識の奥底に追いやってしまうと、ぶつける感情ばかりが表出し、ぶつけられる他者はストレスが溜まっていきます。

上記の現象を考えるとき、ギリシャ神話のナルシスとエコーのお話をいつも思い出します。

水辺に映った人の顔があまりにも美しく、その美しさに魅了されるあまり、水辺でしか合う事の出来ないその美しい人に恋焦がれひたすら水辺を眺めるナルシス。実はナルシスその人自身が自分を水辺に映し、自分自身を愛し続けるのです。
その様子をエコーが見守り続けます。エコーはナルシスを愛していましたが、水辺に映る自分の姿しか興味がなく、自分に向いてくれません。哀しみに暮れたエコーはとうとう身体を失い声だけになってしまいます。その声は人の声を映す「エコー」の語源になっており、ナルシスはナルシストの語源となっています。

ギリシャ神話に登場する神々は、人の感情の種類、そして、人の傾向を集大成した曼荼羅のようだといつも思います。

壮大であり、理不尽であり、人間の世界ではあり得ないと思いきや、実は人に内在している感情や行動があからさまに、何のとらわれも無く表現されているのです。

人の傾向を擬人化していく神々の世界を神話で表現したのは一体誰なのでしょう。。。物語だったのかほんとうにそんな世界が繰り広げられていたのか、妄想の中でギリシャ神話がどんどんと自分の頭の中の宇宙に広がっていくのです。

ただし、ギリシャ神話はヨーロッパの礎(ギリシャ神話の神様はエウロパ)となっていますが、「チベットの死者の書」に関しても東洋らしい人のありようが表現されています。それが「80の自性の分別」と云えると私は解釈しています。

東洋で生まれ育った私は、この80の自性の分別に書かれている人の感情の種類のほうが自分の体感に納まりやすいのです。
大陸からの滴を交えながら更に養ってきた日本の文化はさらに自分にとって「当たり前」と言えるものになっていますが。

私の勝手な解釈ですが、東と西の文化はチグリス、ユーフラテス川を起点にそれぞれの分化していったのではないかと思っています。

自分の中にある怖れる心と向き合うには、自分の怖れを自分自身が怖れていることを受容することからが始まりかもしれません。
そのためには、世界の神話を読みながら自分に投影してみるのも一つの方法であるようです。

神話を大切にしない民族は滅んでいくと教えられました。まったくその通りだと思っています。
「怖れを無視すること」とはどういうことか考えることに繋がっていくのです。

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立冬の朝

2013年11月07日 | 第2章 五感と体感
今日は立冬です。

日の出の時刻が段々と遅くなり、起床する時間はまだ暗いです。

冬至まではまだ一ヶ月半ありますが、冬支度を整える季節は何かと気忙しくもなるので、きっとあっという間に今年も終わってしまう事でしょう。

「立」のつく節気のあたりになると、季節の心構えが自分の心身に湧いてきます。

立春からはじまり、立夏、立秋、立冬と巡る一年を意識すると、季節毎の自分の役割にも心が至ります。

雪国に住む人々は実りの季節と同時に冬支度が始まるでしょうが、私もそろそろ冬支度を始めます。

街に出ると早々とクリスマスのデコレーションで賑やかさが増していますが、季節の変わり目を感ずる心を忘れずに過ごしたいものです。

日本の四季の移ろう過程こそ文化遺産にしてほしいと思ったり・・・。

和食が文化遺産になるそうですが、四季があってこその文化であることを意識せずして日本の文化は語れないのですから^^

炉を切った茶室で炭のはじける音を聞きながら炊く匂いを聴き、鉄の蓋を開けると湯気立つ様がなんとも好きです。

茶室に籠りたい~と思う願望を妄想止まりにし、今日もガサガサと仕事に向かうのであります(笑)

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美を求める

2013年11月06日 | 第2章 五感と体感
詳しい事は解りませんが、ナチスドイツに略奪された絵画1400点余りが、ある人物の管理で良い状態で見つかったニュースを聞きました。

人は何故美しいものを希求し自分のものにしたいと思うのか。。。
このニュースの場合、自分のものにしたいという以前に保管し続けた人物の想像を絶する使命感のようなものを感じ取っていますが。。。

これを目の当たりにした人々の感情を是非とも聞いてみたいものです。

台湾の故宮博物館に納められている数々の名品。
ロマノフ王朝の宝物。
これらの移動に関するドラマのような真実。。。

人が命を掛けて守ろうとする美術品には、人の欲だけでは治まらない美の希求があるように思ってなりません。

利休が求めた美も然り。

求めるものが大きくなればなるほど茶室が狭くなっていきます。
目で見える範囲のものを自分の美意識が超えた時、もしかしたら茶室の狭さどころか、自分以外何も要らなくなるのかもしれません。それが日本人の持つアイデンティティの要素の一つであるかもしれません。

人に自ずから芽生える美意識や見えないものを見たい情動を抑える事はとても難しいことででしょう。

それらのものを全て破壊し今になってから希求する人々が何かを求め出したり、美しきものを番人のように守り続けた人がいたり、日本では朽ちて錆びていくことに美を見い出す感性が育まれながら物そのものよりも精神性が継承されたり、、、

それぞれの美の保存についての考え方はそれぞれでありましょう。

戦後保管され続けた絵画を巡り、どのようなドラマが繰り広げられていたか興味が尽きません。

70年あまりの封を解かれた絵画が息を吹き返すことへの感動も密閉された古墳の石室の扉が開くときの感動も、いずれも打ち震える様なものであると推察します。

人の面白さは、この感情の領域そものもだと改めて思うのです。

ともかく絵画を守り続けた人物を誰が映画で表現するかツラツラ考えると、パイレーツ オブ カリビアンでもなく、インディージョーンズでもなく、、、叶わぬ夢ですがヴィスコンティーが相応しいと、、、妄想を巡らしております。

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辛抱の限界

2013年11月04日 | 第2章 五感と体感
我が家の猫の額の庭はさておき実家の庭の方が気になり昨日は半日庭仕事に勤しみました。
庭に出る事が好きな母は案の定痛い身体を押して手入れをしているのは一目瞭然。痛くてもやろうと思えばできることでもあり、母の生きがいでもあるので「庭仕事をやめたほうがいいわよ」とは言えません。
自分の限界は自分で決めたほうが納得がいくはずです。

好きなことを好きなようにできないことのストレスと向き合うには、自分に課す「辛抱」が必要です。
でもこの辛抱がどこまでが限界で、どこからが受容の域に入るのかは、その人次第だと思うのです。

自分が出来ないことを簡単に他者に押し付ける人もいれば、やってもらえないことを第三者に文句タラタラ言う人もいれば、「しょうがない」と最初からあきらめて押し黙る人もいます。思うがままにできないことを受容しながら活き活きと暮らしている人もいます。

自分の辛抱の限界は、他者の辛抱の限界と随分違うのです。

そして自分が現実を受け容れる「受容」という言葉があります。

辛抱と我慢

そして

受容

自分の辛抱と受容は、どこでどんなふうに入れ変わっていく傾向があるのでしょう。

辛抱の限界のハードルが低いか高いかは、自分自身のスケールから自分自身が測っていくしかありません。
自分のスケールは他者に判断してもらうものではありません。

まずは、自分の辛抱の限界がどのあたりにあるか自分で測ってみると、次の一歩が見えてくるかもしれません。

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緊張感の取り扱い

2013年11月03日 | 第2章 五感と体感
私は緊張感にとても弱いです。故に一発勝負は苦手です。苦手だと思う人生を歩んできたので、思い込みの擦り込みはずいぶん根深いものだと思っています。
そうはいっても、突然の事に対してはどうしようもありませんが、仕事等予定の解るものに対しての事前のシュミレーションは欠かせません。

ここ数日、スポーツ界では見ているだけでも心臓が飛び出そうな場面に出合っています。

上原選手の「上手くいきすぎる事に怖さを感じながらやってきた」というコメントがとても印象的でした。
昨日の田中選手にしても、あの真っ直ぐな眼差しにアスリートの凄さを感じ、怖さに打ち勝った上原選手の言葉を思い出しながらテレビの画面を見入りました。
結果は残念でしたが、見ている私はちょっとホッとしたりして。。。

そのような中、応援している横浜マリノスの中村選手が病気になり入院という知らせ。
優勝を狙う中、プレッシャーの連続だったのでしょうか、、、。回復を祈りながらも万全なる体調管理もプロの仕事の一つであり残念だなぁ、、、と思います。でも回復して優勝を目指してほしいと切望しています。

自分の緊張との向き合い方に「自分に潜むある傾向」を見い出し取り扱い方法を編み出すことができたら、きっと以前よりはストレスが軽減するかもしれません。

自分に与えられたストレスに打ち勝つ方法は、自分の傾向を知ることが基本の基ということなのでしょう。

言葉で綴ることは簡単ですが。。。。。

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祭事の起源

2013年11月02日 | 第2章 五感と体感
神無月が過ぎ霜月となりました。
出雲に集結した神様が各地にお戻りになり、お仕事再開と云ったところでしょうか?

かつて北米に移住したアイルランド人の風習ハロウィーンが段々と習慣化され日本でもしっかりと定着したイベントへと流れついてきました。
トリックスター的な祭事の好きな日本人である故、仮装することによって別人格になることに違和感を感じないのかもしれません。
そんなハロウィーン10月31日が終わると日本の国も神様達が出雲からお帰りになり、キリスト教では11月1日に諸聖人を祀り、本日11月2日は「死者の日」ということになります。

もともとヨーロッパを制覇していたケルト人を宗教的弾圧を与えながら、かつケルト信仰と融合させながら現在のキリスト教としてのかたちが築き上げられてきました。キリスト教以前の宗教が交じり合いながら各地の民衆の持つ慣習の中に入り込んでいったのです。
森に住む魔女は森に潜み住むケルト人を象徴化するものであり、町から外れた森の中というのは日本も同じく、表の世界に住まない人々が右往左往していたわけです。

私の場合ハロウィーンというとアイルランド音楽を聴きながら、いやいやU2でも良いですが、かの地の持つ信仰を大切にしたいものだと思うわけです。

誰しもが民間信仰の裏付けを理解する必要などありませんが、「何故こんなお祭りがあるの?」という疑問が浮かんだら、民俗学の学びの扉を開くきっかけになります。

「春分、夏至、秋分、冬至」という一年間の節目を起点に、太古の人々はそこに普遍性を見い出してきました。その普遍性が祭事を生み、繰り返され、今に至っている、と私は考えています。

年月を重ねいつしかハロウィーンが日本人に分化され、独特な個性を生んでいくとその起源を巡って民俗学の学問の対象となる日がくるかもしれません。真面目な学問的対象となるのは千年後ぐらいでしょうか^^。

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当たり前だと思う事

2013年11月01日 | 第2章 五感と体感
先日、熊野古道中辺路の山の峠に住む90過ぎたおばあちゃんが熊野古道特集の番組に出ていました。
生まれて育ったのもこの隣の家で、嫁ぎ先はここ。つまり90年間山々が連なる風景を見渡す峠に住み続けていらっしゃいます。修行者や登山者のために峠の茶屋を農家をしながら営んできたそうです。
人生の岐路を真面目に考えていらっしゃる俳優の佐野史郎さんが、おばあちゃんと会話する内容がなんとも引きこまれるものでした。
互いに多くを語らず、「山を降りようと思った事はないか?」という質問におばあちゃんは「この暮しは当たり前だ」と一言。どんなにお経を読んだって出てこない言葉だな、と思いました。おばあちゃんの表情にはまったく猜疑を感じません。長年日に当たって畑に出ていたことが解る健康的な肌のつやに深く刻まれた皺がとても美しく印象的でした。

自分の今の暮らしにほんとうに猜疑の心がないことは、今の世の中では奇跡に近いかもしれません。

「理想と現実のギャップが不安感を生む」と言われると、ついつい「理想」という言葉が「大きな夢とか壮大な自己実現」と捉えてしまいがちです。

この場合の理想とは、勿論言葉通りの理想も含まれますが、自分に既に根付いている「当たり前だと感じていること」や「成育史上育まれてきた考え方」自体が既に理想、つまり「せねばならない」「こうありたい」なのです。

「当たり前」という言葉は、第三者にとっては当たり前ではありません。

自分が当たり前だと風習、習慣、戒律にしても、他の場所に行けば、常識に外れた行為かもしれませんし、信じられない考え方と捉えられるかもしれません。

幼い頃の育ちも人それぞれです。

そして、段々と自分と他者の違いが見えてくる時期がやってきます。

良くも悪くも見えてきたとしたら、「自分は自分である」ことへの目覚めだと思っても良いかもしれません。

親が何を言おうと、先生が何を言おうと、友達が何を言おうと、自分は自分なのです。

その自分をどう取り扱うかを自分の内から答えを見い出すことができたら、きっと一人で充分に生きていくことができるでしょう。

自分が当たり前だと思っていること。やるべきことが自分の義務だと思っていることを今一度検証し直してみると、視界が広がるきっかけが訪れるきっかけを得るかもしれません。

「囚われていることが自分を苦しめている」という予感がしたら、ちょっと窓を開いて外の風景を眺めてみては如何でしょうか。。。熊野の山々が見えるかもしれないし、日に輝く海がみえるやもしれませぬ。。。

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