◇ 朝日新聞のコラム“ひととき” から ◇
夕方、バスに乗った。乗車口の近くに車椅子に乗った青年がいた。私は週2度ほどバスに乗るが、車椅子の乗客と乗り合わせるのは初めてだった。
病院に着くと、運転手が車外に出てステップを出し、彼を降ろした。「どうしよう、手を貸さなくていいかしら」と思いながら、立てなかった。
病院はバス停の目の前だが、通行量の多い道路を渡らなくてはならない。運転手は「大丈夫ですか」と彼に確認した後、ステップを収めて車内に戻った。すべてがてきぱきと早かった。
だが、運転手が車椅子を置くために倒してあった座席を戻そうとしたとき、後方から中年男性の大きな声がした。「早く車を動かせよ、みんな早く帰りたいんだから」
私をはじめ、何人かの乗客が驚いて振り返った。なんてひどいことを言うのだろうと、非難のまなざしで。運転手は、座席をそのままにして、急いで運転席に戻った。
別の男性が「そんなこと言わなくてもいいだろう、事情があるんだから」と言ってくれた。彼と目が合った私はうなずき、同感だと意思表示をした。
次のバス停が私の降りる所だった。何もできなかった私は、いろいろな思いをこめて、「どうもありがとうございました」と、車内に響く大きな声で運転手に言って降りた。
(千葉県柏市 主婦 66歳)
もし僕がここに乗り合わせていたら、間違いなく、暴言をたしなめた男性と同じようなことを言っただろう。この男性に遅れをとったとしても、拍手をしてこの男性を称えたと思う。こんなとき声を上げることに勇気がいることはよくわかる。少なくとも拍手で後押しができないものか。そんな拍手が車内に広がったら、その日は幸せな気分になれそうな気がする。
友人が病気で動けなくなったとき、車椅子を押したことがある。車椅子を停めて他の作業をしようとしたとき、ストッパーを使わなかったため、少しの坂で車椅子が動き出した。
また、車椅子を押して歩道を歩いているとき、そばを通る自転車に危険を感じた。それ以来、自転車で車椅子のそばを通るとき、ゆっくりと走ることにした。
少しの段差でも不都合だ。道路に多くの段差があることにも気がついた。何故こんなに段差が必要なのだろうか。
自分が経験をして始めて気付くことがある。障害を持つ人 には、健常者には気がつかない不都合があるだろう。弱い立場の人に優しい人間でありたい。経験からそう思えるようになった。