本作は原作の持つミステリーな面白さと、戦争という重さを合わせもち、それを映画という限られた尺の中で、選択と集中がバランスよくまとめられていると前回の感想でも書きました。
もうちょっと、本作を観ていた自分がどう感じたかの分析と、戦争映画というジャンルの意義みたいな事を、私なりの歴史観を交えて書いておきたいなと思います(休みが始まったとこなので、じっくりと長めに書いてしまいました(^_^;)。
以下はネタバレも多く折り込みますので、未見の方は飛ばしてください。
この映画ではジワ~...ジワ~...最後にドワ~!っと涙あふれると言うパターンでした。
映画の評価を「感動」という安易な言葉で片付け、泣けるか泣けないかという基準で語るのは好きではないんですけどね(^_^;
この映画(原作も同様ですが)、複数の証言者から発するエピソードの積み上げで少しずつテンションを上げていき、最後の最後で一気に盛り上げ、ストンと終了という構造になってます。
エンディングをクドくせず、ズルズルと引き摺らないところも良い。
個人的に景浦との面会を二つに分けたのはアレンジとして一番良かったところでした。こういう人物なら、一度は門前払いするだろうなと思うし、作品の流れにピリッとしたアクセントが効いてましたし。
それだけに、戦後に景浦の行ったこと(一番大きなネタバレになるので詳細は書きません)が会話だけでなく、シーンとして描いてないのが惜しい。
原作でも会話の中で触れているだけなのですが、映画での表現として、ここを映像として強調しないと、映画が初見の人には印象が薄くなると思うし、景浦がなぜ宮部の孫を最後に抱きしめたのはも今ひとつ「?」のままになってしまうのではないかと。
何故ドワ~っと涙腺崩壊したのかは...証言者の老人たちの一言をカットバックで畳みかけた後、最後の突入シーンで海面スレスレで敵の弾幕を躱し、超低空から一気に高度を上げ、目標に急降下で突入する...この一連の動き、高度で天才的なテクニックを「特攻」と言う遣るせない状況下で駆使せざるをえなかった...その虚しさを感じたからです。
「生きるため」の技法として、磨いてきた操縦・戦闘技術を、最後は「死ぬため」にだけに使わざるを得なかった...こんなに矛盾した哀しさは無いなと...。
ラストカットは宮部の突入直前までの顔を大きくアップ、僅かに微笑みを浮かべていたのですが、その笑みは前述の矛盾に可笑しさを感じてのことなのかと受け止めました。
その「笑み」をもっと大きく解釈してみます。
特攻は軍上層部が戦略を放棄した、最悪の作戦だったと思います。
人権を無視し、義務だけを押しつけた時代の究極で最悪の方法だと思うし、強いた犠牲の大きさに言葉を失うばかりです(戦争末期に補充された、即製で未熟な搭乗員を有効活用するために発想された作戦という説もあるようですし)。
実際、宮部のような言動は全く許容されることはなく、実在していたとすれば、いくら有能であっても命令服従が絶対の組織の中であんなに長く生きることはできなかったと思います。
架空の人物ですし絵空事だと思ってしまえば、原作含めてストーリーに入ることはできなくなってしまうんですけれども...。
歴史的に観ても戦争は最初は得てして楽観的に始まり、最後は泥沼になります。
その上、終わらせ方を誤ると組織は狂い、崩壊の道を辿ります。
特に日本人は平時においての組織力は強く質も高いのですが、有事となり予想外の事が重なると臨機応変な行動ができなくて、思考停止に陥ります。
己の保身をはかってばかりの上層部、そこから発せられる命令に翻弄される現場。
バブル経済崩壊の時もそうだった。震災による原発事故もそうだった。
いかに現場に優秀な人がいても、官僚化され機能不全な組織の中では下からの意見は無視され抹消されるばかり。
どれもこれも今もって根本的に解決がされておらず、ズルズルとウヤムヤにしたままです。
その上、この20年で韓国や中国が経済的に台頭し、日本人は自信を失い、内向性が高まってきていて、良い傾向とは言えない状態です。
戦争や歴史を扱った本・映画・ドラマに触れる度に、今現在はどうなんだろうと比較するように考えるようにしています。
冷静に考えることができれば、ここに右や左に偏る必要もない筈ですし。
今回の「永遠の0」は、その最悪の結果を絞ったテーマで見せてくれていますが、原作には、特攻をテロだと主張する新聞記者と、映画にも登場した証言者の一人である武田が、戦前の偏向報道を巡って議論する場面があります。
明治維新後、アジア周辺の領有を巡り、帝国主義の国がその解決策として外交よりも戦争という手段を優先し、問題を残しつつも上手くいっていた訳です。
昭和に入ってからも、欧米の干渉があれば戦争を優先的に考えるだろうし、マスコミは主張し扇動もする。マスコミと国民の関係はニワトリとタマゴだし、双方スパイラルと化し膨張していく。
日米開戦してから暫くは、戦争を喜び、国内の景気も良くなり、世の中も明るく感じられたという話しもよく聞きますし。
明治期以降の成功体験から、やはり楽観し、やがてその資産を全て使い尽くし、崩壊したのが、昭和20年までの日本でした。
武田の新聞マスコミへの怒りも理解はできるが...やはりどこか天に唾することかなとも感じてしまいます。新聞記者のテロ発言は極端すぎで、私も受け入れがたい考え方ですけれど。
やはり最後のツケは現場、それも若者や弱者に回ってしまうということでしょうか。
宮部の最後の「笑み」は、そんな事への嘲笑にさえ感じとれるほど、強く印象に残りました。
拡大解釈のし過ぎかもしれませんけれど...。
こういう作品に触れた時、そうならない為にどうすれば良いのか、どんな選択があるのか、多くの犠牲の上に積み上げられた歴史という教訓を再確認するキッカケになれば良いんだけどな...と考えています。
そして、宮部の時代から何世代も経た現在、宮部の「笑み」に我々はどう応えれば良いのかとも。
もうちょっと、本作を観ていた自分がどう感じたかの分析と、戦争映画というジャンルの意義みたいな事を、私なりの歴史観を交えて書いておきたいなと思います(休みが始まったとこなので、じっくりと長めに書いてしまいました(^_^;)。
以下はネタバレも多く折り込みますので、未見の方は飛ばしてください。
この映画ではジワ~...ジワ~...最後にドワ~!っと涙あふれると言うパターンでした。
映画の評価を「感動」という安易な言葉で片付け、泣けるか泣けないかという基準で語るのは好きではないんですけどね(^_^;
この映画(原作も同様ですが)、複数の証言者から発するエピソードの積み上げで少しずつテンションを上げていき、最後の最後で一気に盛り上げ、ストンと終了という構造になってます。
エンディングをクドくせず、ズルズルと引き摺らないところも良い。
個人的に景浦との面会を二つに分けたのはアレンジとして一番良かったところでした。こういう人物なら、一度は門前払いするだろうなと思うし、作品の流れにピリッとしたアクセントが効いてましたし。
それだけに、戦後に景浦の行ったこと(一番大きなネタバレになるので詳細は書きません)が会話だけでなく、シーンとして描いてないのが惜しい。
原作でも会話の中で触れているだけなのですが、映画での表現として、ここを映像として強調しないと、映画が初見の人には印象が薄くなると思うし、景浦がなぜ宮部の孫を最後に抱きしめたのはも今ひとつ「?」のままになってしまうのではないかと。
何故ドワ~っと涙腺崩壊したのかは...証言者の老人たちの一言をカットバックで畳みかけた後、最後の突入シーンで海面スレスレで敵の弾幕を躱し、超低空から一気に高度を上げ、目標に急降下で突入する...この一連の動き、高度で天才的なテクニックを「特攻」と言う遣るせない状況下で駆使せざるをえなかった...その虚しさを感じたからです。
「生きるため」の技法として、磨いてきた操縦・戦闘技術を、最後は「死ぬため」にだけに使わざるを得なかった...こんなに矛盾した哀しさは無いなと...。
ラストカットは宮部の突入直前までの顔を大きくアップ、僅かに微笑みを浮かべていたのですが、その笑みは前述の矛盾に可笑しさを感じてのことなのかと受け止めました。
その「笑み」をもっと大きく解釈してみます。
特攻は軍上層部が戦略を放棄した、最悪の作戦だったと思います。
人権を無視し、義務だけを押しつけた時代の究極で最悪の方法だと思うし、強いた犠牲の大きさに言葉を失うばかりです(戦争末期に補充された、即製で未熟な搭乗員を有効活用するために発想された作戦という説もあるようですし)。
実際、宮部のような言動は全く許容されることはなく、実在していたとすれば、いくら有能であっても命令服従が絶対の組織の中であんなに長く生きることはできなかったと思います。
架空の人物ですし絵空事だと思ってしまえば、原作含めてストーリーに入ることはできなくなってしまうんですけれども...。
歴史的に観ても戦争は最初は得てして楽観的に始まり、最後は泥沼になります。
その上、終わらせ方を誤ると組織は狂い、崩壊の道を辿ります。
特に日本人は平時においての組織力は強く質も高いのですが、有事となり予想外の事が重なると臨機応変な行動ができなくて、思考停止に陥ります。
己の保身をはかってばかりの上層部、そこから発せられる命令に翻弄される現場。
バブル経済崩壊の時もそうだった。震災による原発事故もそうだった。
いかに現場に優秀な人がいても、官僚化され機能不全な組織の中では下からの意見は無視され抹消されるばかり。
どれもこれも今もって根本的に解決がされておらず、ズルズルとウヤムヤにしたままです。
その上、この20年で韓国や中国が経済的に台頭し、日本人は自信を失い、内向性が高まってきていて、良い傾向とは言えない状態です。
戦争や歴史を扱った本・映画・ドラマに触れる度に、今現在はどうなんだろうと比較するように考えるようにしています。
冷静に考えることができれば、ここに右や左に偏る必要もない筈ですし。
今回の「永遠の0」は、その最悪の結果を絞ったテーマで見せてくれていますが、原作には、特攻をテロだと主張する新聞記者と、映画にも登場した証言者の一人である武田が、戦前の偏向報道を巡って議論する場面があります。
明治維新後、アジア周辺の領有を巡り、帝国主義の国がその解決策として外交よりも戦争という手段を優先し、問題を残しつつも上手くいっていた訳です。
昭和に入ってからも、欧米の干渉があれば戦争を優先的に考えるだろうし、マスコミは主張し扇動もする。マスコミと国民の関係はニワトリとタマゴだし、双方スパイラルと化し膨張していく。
日米開戦してから暫くは、戦争を喜び、国内の景気も良くなり、世の中も明るく感じられたという話しもよく聞きますし。
明治期以降の成功体験から、やはり楽観し、やがてその資産を全て使い尽くし、崩壊したのが、昭和20年までの日本でした。
武田の新聞マスコミへの怒りも理解はできるが...やはりどこか天に唾することかなとも感じてしまいます。新聞記者のテロ発言は極端すぎで、私も受け入れがたい考え方ですけれど。
やはり最後のツケは現場、それも若者や弱者に回ってしまうということでしょうか。
宮部の最後の「笑み」は、そんな事への嘲笑にさえ感じとれるほど、強く印象に残りました。
拡大解釈のし過ぎかもしれませんけれど...。
こういう作品に触れた時、そうならない為にどうすれば良いのか、どんな選択があるのか、多くの犠牲の上に積み上げられた歴史という教訓を再確認するキッカケになれば良いんだけどな...と考えています。
そして、宮部の時代から何世代も経た現在、宮部の「笑み」に我々はどう応えれば良いのかとも。