こうの史代さんの原作は大好きでしたし、何度も繰り返し読んできましたが、今回の映画化により改めて浮き彫りとなって気づかされたのが、恋愛ではない、家同士や見合いによる夫婦のあり方や成長過程なんです。
映画は時間の流れがあるので、人の成長や関係性の変化・進展を感じ取りながら観ていく形ですので、周作さん・すずさんの夫婦関係の推移が非常にわかりやくなってました。
周作さんは子供時代の記憶を伝ってすずさんを探しだし結婚を申し込みますが、反面すずさんはほとんど憶えていなくて「嫌かどうかもわからん人」が相手になるワケです。
物語には判断や承諾の経緯は描かれず、いきなり結婚式の日に飛び、すずさんは呉の北條家で夫婦生活をスタートします。
この時点で周作さんとは言葉を交わすことさえ初めてだし、お祖母ちゃんに教わった符丁を意識しつつ、周作さんと夫婦となるワケですが、感情もなく、ある意味で形だけなんですよね。
家族が嫁に期待するのは、家事労働力と子供を産み育てること。
概念的には契約関係で、「嫁して三年、子無きは去れ」という感覚は今では酷い考え方に見えてしまいますが、当時は割と冷静に受け止められていたようで...。
すずさんは家事労働力としては北條家によく貢献しつつ、周作さんとの関係も仄かに発展させていきます。
物語の中盤、防空壕でのキスシーンがありますよね。あれって観てる方もドキドキしちゃうほどエロティックで濃厚なシーンなんですが、まだまだ二人の関係性は完成されていない...あえて嫌らしい言い方しますと(^_^;、単に動物的に欲情しているだけで精神的にはまだ距離がある段階なんですね。
多少なりとも異性と付き合ったり、結婚していれば判ることだと思います(^_^)
そして、水原哲との一件で、すずさんは周作さんの行動に怒り不信感も抱きます。
その上、戦禍により身も心もズタズタにされ、様々なウンザリ事によってすずさんは鬱になり別れて実家に帰りたくなったりもします。
でも...ラスト近くで「ほんでもう離れんで、ずっとそばにおってください」と最後に救いの言葉を告げ、あぁ本当の愛で結ばれたホンモノの夫婦になったんだな...と感じ、ここで私は滂沱の涙が溢れてしまうのです(T_T)
この二人の関係の時間にのった流れがとても良いんです。これは映画だからこその利点です。
周作さんとすずさんはこの域に達するまで2年ほどかかっているのですが、夫婦によってはもっとかかる場合も...。
映画を観て、この経緯を認識したとき、ふと思い出したのが、以前読んだ富野由悠季さんによる「『ガンダム』の家族論」です。
富野さんと妻・亜阿子さんは後輩の紹介による見合いで出会い、恋愛感情もなく、ただ生活のためだけと言って良いほど割り切った考え方で結婚しました。まさに契約的な概念で夫婦になったワケです。
その関係性において、印象的だった部分をご紹介します。
僕は相手を好きになるように努力した。そして十年経った時、ようやく亜阿子を好きになれた。その十年は長いようにも思えるけれど、振り返ってみればそれほど長くも感じなかった。「これなら我慢できる」と思って結婚したのだから耐えられたのだろう。
そしてある日、僕は亜阿子にそのことを話した。十年経って、ようやく君のことを好きになれたよ、と。
すると、彼女は「私だってそうよ」と答えた。
僕ら夫婦はその時、「その人のすべてを好きになれる相手なんているわけない。結婚とはそういうものじゃない」という合意を初めて得たのだった。
もちろん十年間というのは、「好みではない」ということを我慢しただけではない。相手を好きになる努力をした十年でもあった。
好きになる同機というのは、なにもロマンチックなものではない。一緒に生活をするという目的を達成するためには、相手を嫌いであるわけにはいかないのだ。そのために好きになる努力をする。
この「一緒に生活をするために努力する」ことのなかに現実に、見合った愛情が含まれているのだと思う。そして、恋愛結婚からはこの視点がしばしば抜け落ちてしまうのだ。
夫婦の出会いも成り立ちも。すずさん夫婦とは違いはありますが、富野さんの気持ちには共通するものがあるなと感じました。
こういう夫婦の形の全てがうまくいってるワケでもないですし、恋愛結婚も否定できることではありません(現に私も恋愛ですし(^_^;)。
あえて括れば昭和のそれも前期までは、そういう結婚観が当たり前だったようで、私の両親、そして祖父祖母と世代を遡るほどその度合いが強くなります。
映画版「この世界の片隅に」には色んな時代的要素がたくさん詰まっていますが、そんな男女の関係や機微も改めて感じさせてくれる作品なんだなと...心に沁みた次第です(*´д`*)
映画は時間の流れがあるので、人の成長や関係性の変化・進展を感じ取りながら観ていく形ですので、周作さん・すずさんの夫婦関係の推移が非常にわかりやくなってました。
周作さんは子供時代の記憶を伝ってすずさんを探しだし結婚を申し込みますが、反面すずさんはほとんど憶えていなくて「嫌かどうかもわからん人」が相手になるワケです。
物語には判断や承諾の経緯は描かれず、いきなり結婚式の日に飛び、すずさんは呉の北條家で夫婦生活をスタートします。
この時点で周作さんとは言葉を交わすことさえ初めてだし、お祖母ちゃんに教わった符丁を意識しつつ、周作さんと夫婦となるワケですが、感情もなく、ある意味で形だけなんですよね。
家族が嫁に期待するのは、家事労働力と子供を産み育てること。
概念的には契約関係で、「嫁して三年、子無きは去れ」という感覚は今では酷い考え方に見えてしまいますが、当時は割と冷静に受け止められていたようで...。
すずさんは家事労働力としては北條家によく貢献しつつ、周作さんとの関係も仄かに発展させていきます。
物語の中盤、防空壕でのキスシーンがありますよね。あれって観てる方もドキドキしちゃうほどエロティックで濃厚なシーンなんですが、まだまだ二人の関係性は完成されていない...あえて嫌らしい言い方しますと(^_^;、単に動物的に欲情しているだけで精神的にはまだ距離がある段階なんですね。
多少なりとも異性と付き合ったり、結婚していれば判ることだと思います(^_^)
そして、水原哲との一件で、すずさんは周作さんの行動に怒り不信感も抱きます。
その上、戦禍により身も心もズタズタにされ、様々なウンザリ事によってすずさんは鬱になり別れて実家に帰りたくなったりもします。
でも...ラスト近くで「ほんでもう離れんで、ずっとそばにおってください」と最後に救いの言葉を告げ、あぁ本当の愛で結ばれたホンモノの夫婦になったんだな...と感じ、ここで私は滂沱の涙が溢れてしまうのです(T_T)
この二人の関係の時間にのった流れがとても良いんです。これは映画だからこその利点です。
周作さんとすずさんはこの域に達するまで2年ほどかかっているのですが、夫婦によってはもっとかかる場合も...。
映画を観て、この経緯を認識したとき、ふと思い出したのが、以前読んだ富野由悠季さんによる「『ガンダム』の家族論」です。
富野さんと妻・亜阿子さんは後輩の紹介による見合いで出会い、恋愛感情もなく、ただ生活のためだけと言って良いほど割り切った考え方で結婚しました。まさに契約的な概念で夫婦になったワケです。
その関係性において、印象的だった部分をご紹介します。
僕は相手を好きになるように努力した。そして十年経った時、ようやく亜阿子を好きになれた。その十年は長いようにも思えるけれど、振り返ってみればそれほど長くも感じなかった。「これなら我慢できる」と思って結婚したのだから耐えられたのだろう。
そしてある日、僕は亜阿子にそのことを話した。十年経って、ようやく君のことを好きになれたよ、と。
すると、彼女は「私だってそうよ」と答えた。
僕ら夫婦はその時、「その人のすべてを好きになれる相手なんているわけない。結婚とはそういうものじゃない」という合意を初めて得たのだった。
もちろん十年間というのは、「好みではない」ということを我慢しただけではない。相手を好きになる努力をした十年でもあった。
好きになる同機というのは、なにもロマンチックなものではない。一緒に生活をするという目的を達成するためには、相手を嫌いであるわけにはいかないのだ。そのために好きになる努力をする。
この「一緒に生活をするために努力する」ことのなかに現実に、見合った愛情が含まれているのだと思う。そして、恋愛結婚からはこの視点がしばしば抜け落ちてしまうのだ。
夫婦の出会いも成り立ちも。すずさん夫婦とは違いはありますが、富野さんの気持ちには共通するものがあるなと感じました。
こういう夫婦の形の全てがうまくいってるワケでもないですし、恋愛結婚も否定できることではありません(現に私も恋愛ですし(^_^;)。
あえて括れば昭和のそれも前期までは、そういう結婚観が当たり前だったようで、私の両親、そして祖父祖母と世代を遡るほどその度合いが強くなります。
映画版「この世界の片隅に」には色んな時代的要素がたくさん詰まっていますが、そんな男女の関係や機微も改めて感じさせてくれる作品なんだなと...心に沁みた次第です(*´д`*)