Twitterのハッシュタグ「細かすぎて伝わらないこの世界の片隅にの好きなシーン」がお気に入りで、思ったポイントをメモ的に書かせてもらってます(^_^)
映画の冒頭「8年12月」と、ラストの「21年1月」の二つのシーンについて書いたものに多くの「いいね」とRTがあって、反応と共感の大きさに驚き、喜んでおります(*^o^*)
特に冒頭のシーンですが、何度も繰り返し観ている内に、母・キセノさんに背負わされた荷が単なる海苔の入った筺ではなく、これからすずさんに起こるであろう様々な苦しさや厳しさが詰まった十字架のように見えてきたんですよね...。
母から、女としての人生のバトンを受け取ったような...。
エゴや意志を強く持たない彼女は、言われるままに荷を背負い続けて生きてきたワケです。
個人的にですが、私はすずさんの生き方、考え方に亡き祖母を見ているような気がしています。頭の後ろを団子に結び、割烹着が標準的な姿という外見もそうなんですが(^_^;
...で、映画ではカットされ描かれていませんが、リンさんに背負う荷のことを指摘されるシーンがあります。それは「ヨメのギム」という形で現れ、その意味を深く問われるワケです。
リンさんの意外な言葉の応酬に、なんの疑問も持たずに十字架を背負わされている自分に気づきショックを受けるけど、「誰でも何かが足らんくらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」と諭され、ホッとしてしまうすずさん(その言葉は晴美ちゃんを失った時、再びジワジワと蘇ってくるのですが...)。
終戦後、焼け野原になってしまった広島で戦災孤児の少女と出会った瞬間、すずさんは改めて自分と少女の背にある十字架に気づき、自ら荷を下ろすように、少女の防空頭巾を外すんですよね。
「これまで私もあなたも充分がんばって背負ってきた...もうその必要はない」と、初めて自分の意志で行動したんだなと。
「女三界に家なし」という古い言葉がありますが、この作品は「家=居場所」を探す旅のような物語にもなっていて、単に戦前〜戦後を描くだけではない深みがあると思うのです。この深みは女性作家である、こうの史代さんならではのものです。
そして、何度も映画を観て、いつの頃からか冒頭とラストに繋がりある動作があると気づき、これはメビウスの輪のような繰り返しの物語であり、「輪廻」を描いているんだなと感じていたんですね。
私なりに、「この世界の片隅に」は小津安二郎作品「麦秋」に近いものを感じていまして、小津さん自身、同作品に対し、下記のコメントをしています。
「これはストーリーそのものより、もっと深い<輪廻>というか<無常>というか、そういうものを描きたいと思った。その点今までで一番苦労したよ。...中略...だから、芝居も皆押しきらずに余白を残すようにして、その余白が後味のよさになるようにと思ったんだ。この感じ、判って貰える人は判ってくれた筈だが...」
このコメントはまるで「この世界の片隅に」を評しているように聞こえます。「輪廻」や「無常」も共通しているなと思いますが、作品の描き方に「余白」がとても多いというところが一番似ているなと。小説でいえば行間みたいなものですが、そこに説明のない様々なことが秘められていているんです(^_^)
フランスでの評価も高まり、小津作品との共通性も指摘されているようですが、私は映像的に似ているとか表面的なものではなく、テーマ性や内面的なものに小津的なエッセンスを感じています。
そのエッセンスは一見しただけでは判らない。判らなくてもストーリーの理解に支障はない。
テアトル新宿での初見の折、片渕さんは出口で一人一人に挨拶と握手をしてくれました。その時に伝えた私の感想は感謝の言葉とともに「今まで観たことの無いテイスト」というものでした。
もちろん元々原作ファンで、物語の最初から最後まで知っていましたが、片渕さんの手によって描かれた(描きなおされた)「この世界の片隅に」は一言で良かったとか感動したとかいう次元の作品ではないなと感じたからです。
冒頭で背負う荷の中身も、これから起こるであろう人生の様々な苦しさや厳しさが詰まった十字架...なんですけど、それは多種多様であり、毎回違うものが入っているようにも感じたりします。それによって作品の見え方が違い、何度観ても飽きがこないのかもしれません。
公開から一年近く経った今でも、まだまだ観つくせていない作品なんです。
物語は、子が小さな肩に荷を背負わされて始まり、下ろされて終わる⋯繰り返し見ると輪廻を感じてくる。 #細かすぎて伝わらないこの世界の片隅にの好きなシーン #この世界の片隅に pic.twitter.com/KsqGeyr1LJ
— どっと屋M、或いは「付け木」(^ω^)/ (@dotter_M) 2017年9月4日
映画の冒頭「8年12月」と、ラストの「21年1月」の二つのシーンについて書いたものに多くの「いいね」とRTがあって、反応と共感の大きさに驚き、喜んでおります(*^o^*)
特に冒頭のシーンですが、何度も繰り返し観ている内に、母・キセノさんに背負わされた荷が単なる海苔の入った筺ではなく、これからすずさんに起こるであろう様々な苦しさや厳しさが詰まった十字架のように見えてきたんですよね...。
母から、女としての人生のバトンを受け取ったような...。
エゴや意志を強く持たない彼女は、言われるままに荷を背負い続けて生きてきたワケです。
個人的にですが、私はすずさんの生き方、考え方に亡き祖母を見ているような気がしています。頭の後ろを団子に結び、割烹着が標準的な姿という外見もそうなんですが(^_^;
...で、映画ではカットされ描かれていませんが、リンさんに背負う荷のことを指摘されるシーンがあります。それは「ヨメのギム」という形で現れ、その意味を深く問われるワケです。
リンさんの意外な言葉の応酬に、なんの疑問も持たずに十字架を背負わされている自分に気づきショックを受けるけど、「誰でも何かが足らんくらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」と諭され、ホッとしてしまうすずさん(その言葉は晴美ちゃんを失った時、再びジワジワと蘇ってくるのですが...)。
終戦後、焼け野原になってしまった広島で戦災孤児の少女と出会った瞬間、すずさんは改めて自分と少女の背にある十字架に気づき、自ら荷を下ろすように、少女の防空頭巾を外すんですよね。
「これまで私もあなたも充分がんばって背負ってきた...もうその必要はない」と、初めて自分の意志で行動したんだなと。
「女三界に家なし」という古い言葉がありますが、この作品は「家=居場所」を探す旅のような物語にもなっていて、単に戦前〜戦後を描くだけではない深みがあると思うのです。この深みは女性作家である、こうの史代さんならではのものです。
そして、何度も映画を観て、いつの頃からか冒頭とラストに繋がりある動作があると気づき、これはメビウスの輪のような繰り返しの物語であり、「輪廻」を描いているんだなと感じていたんですね。
私なりに、「この世界の片隅に」は小津安二郎作品「麦秋」に近いものを感じていまして、小津さん自身、同作品に対し、下記のコメントをしています。
「これはストーリーそのものより、もっと深い<輪廻>というか<無常>というか、そういうものを描きたいと思った。その点今までで一番苦労したよ。...中略...だから、芝居も皆押しきらずに余白を残すようにして、その余白が後味のよさになるようにと思ったんだ。この感じ、判って貰える人は判ってくれた筈だが...」
このコメントはまるで「この世界の片隅に」を評しているように聞こえます。「輪廻」や「無常」も共通しているなと思いますが、作品の描き方に「余白」がとても多いというところが一番似ているなと。小説でいえば行間みたいなものですが、そこに説明のない様々なことが秘められていているんです(^_^)
フランスでの評価も高まり、小津作品との共通性も指摘されているようですが、私は映像的に似ているとか表面的なものではなく、テーマ性や内面的なものに小津的なエッセンスを感じています。
そのエッセンスは一見しただけでは判らない。判らなくてもストーリーの理解に支障はない。
テアトル新宿での初見の折、片渕さんは出口で一人一人に挨拶と握手をしてくれました。その時に伝えた私の感想は感謝の言葉とともに「今まで観たことの無いテイスト」というものでした。
もちろん元々原作ファンで、物語の最初から最後まで知っていましたが、片渕さんの手によって描かれた(描きなおされた)「この世界の片隅に」は一言で良かったとか感動したとかいう次元の作品ではないなと感じたからです。
冒頭で背負う荷の中身も、これから起こるであろう人生の様々な苦しさや厳しさが詰まった十字架...なんですけど、それは多種多様であり、毎回違うものが入っているようにも感じたりします。それによって作品の見え方が違い、何度観ても飽きがこないのかもしれません。
公開から一年近く経った今でも、まだまだ観つくせていない作品なんです。