僕が学生の頃、ずっと疑問に思っていたことがあります。昭和32年(1957年)10月13日、大阪・扇町プール特設リングにて行われた力道山対ルー・テーズの世界選手権試合は、主催者発表で3万人の観客を動員したと多くの文献に書かれています。昭和のプロレスに限らず、コンサートの観客数も主催者の水増しが当たり前なので、目くじらを立てる必要もないのですが、この数には疑問がありました。扇町プール、そんなに広くないからです。
これは昭和38年の扇町プールです。大阪プールに隣接し、事実上大阪プールの補助競技場的な役割を持ち、大阪府の水泳のメッカとして親しまれました。元々競技用として使用されていたため、観戦用のスタンドが見えます。それでも3万人は到底収容出来ません。
つまり、昔のプロレスで扇町プール特設リングと表記されているのは、扇町プールではなく、そこに隣接していた「旧大阪プール」のことなのです。1996年に更地になりましたが、現在の扇町公園には旧大阪プールを偲んで、プールで使用されていた競泳スタート台がモニュメントとして設置されています。扇町プールは現在も残っています。
旧大阪プールでは国際的な水泳大会をはじめとして、プロレス等の各種のスポーツイベントが開催され、浪花のスポーツのメッカと謳われた時期がありました。
こちらが力道山とルー・テーズの試合が行われた大阪プールの、昭和43年(1968年)2月の物価メー・デーの時の写真です。さすがに大きな器です。屋外でナイター照明も設置されており、U字型の巨大な観客席(約2万5千人)を備えていましたので、力道山の世界戦に3万人動員というのも、力道山人気のピーク時ですから、あながち水増し発表とは言えない可能性が大きいです。昔は消防法を無視して人を入れていましたから。
この写真は昭和32年5月に行われた全日本プロレス(G馬場の全日本ではありません)における、山口利夫(柔道6段。元力士のプロレスラー)の引退興行での大阪プールです。この時も3万人近い観衆が集まったと報道され、会場名も扇町プールと書かれていますが、会場は紛れもなく旧大阪プールです。この日の興行には、木村政彦や吉村道明、ユセフ・トルコらも出場しています。この後プロレス界は力道山の下、日本プロレスの時代となりました。
因みに、日本における最初のプロレスのテレビ中継は1954年2月19日に行われた「力道山・木村政彦VSシャープ兄弟」戦ではなく、同年2月6日にNHK大阪の試験放送で中継された、この全日本プロレス協会の興行です。
この大阪プールでは、加山雄三の「海の若大将」も1965年に撮影されていますので、映画の中の最後の競泳大会のシーンで、この大阪プールの姿を見ることが出来ます。