僕は「昭和プロレス」が好きでした。まだビデオも無い時代、金曜夜8時にはテレビの前に座り、家族や友人達と「ワールドプロレスリング」を毎週観ていました。初めてのプロレス観戦は昭和44年(1969年)12月2日の大阪府立体育会館。アントニオ猪木とドリー・ファンクJrのNWA世界戦でした。勿論猪木引退試合も東京ドームで観戦しました。
学生時代にはプロレス八百長論争に嫌な思いもしました。人が楽しんで見ているものに、どうしてあれこれ言うのだろう・・。本気、真剣勝負がいいなら、殺し合いに限りなく近い町の喧嘩が1番面白いとなる。闘鶏のように金網の中で血だらけになって殴り合ったり、膠着するものが面白いのか?柔道で4段まで取得した僕には、分かっていました。本当に強い者同士が真剣に闘えば、どちらかあるいは両者が大怪我をするし、そもそもTV中継でお茶の間に届けるものではないと。プロレスラーは強い。そしてプロレスは面白く興味深い。僕が逆立ちしても出来ないことをリングでやっていたからです。
長くプロレスを楽しむ中で、いわゆるレスラーの自伝や専門誌もほとんど読み漁りましたが、僕が1番楽しんだ読み物は、週刊ファイトというタブロイドのプロレス専門紙でした。中でも、タイガー・ジェット・シン特集号と、ローラン・ボック特集号ほど夢中になって一気読みしたものはありません。
学生時代の冬休み。1979年の暮れのことです。アルバイトの休憩中にいつものように駅の売店に「ファイト」を買いに行くと、普段よりも分厚く値段が高い!「なぜ?」と手にしたタイガー・ジェット・シン特集号は面白過ぎました。映画俳優もプロレスラーも、80年代まではまだまだベールに包まれた存在であり、だからこそスターであり得ました。
しかもシンと言えば、日本中を敵に回した大悪役。猪木との抗争は手に汗を握りました。あの2人の異様な闘いが、新日本プロレスを隆盛に導いたと言っても過言ではありません。そんな大悪役の「狂虎」シンの笑顔や、とんでもない大富豪の素顔・私生活が暴露されていたのが、この時の特集号でした。
TVで暴れるシンも、会場で目の前で暴れるシンも、本当に強くて怖かった!だから大富豪で人間的魅力に溢れた素顔を知っても、シンのイメージがダウンすることは全くなく、余計に「凄い奴」だと感じたことは今も忘れません。
大阪・茨木市の春日丘高校を甲子園に導いた(大阪府では公立高校の夏の甲子園大会出場は、1959年の八尾高等学校以来23年ぶりという快挙でした。)神前俊彦監督と大学時代、夏休みや冬休みの度に僕は、工事現場のアルバイトを一緒にしており、工事現場近くのラーメン屋でいつもファイトを分け合って読んでいました。(当時は僕らはカイマイさんと呼んでいました。)サラリーマンと高校野球部監督の二刀流を成し遂げていた神前さんの努力は、本当にシンのように凄かった。
シンの全てをシン本人の協力の下でスッパ抜いた、この時の特集号の衝撃は今も忘れられません。今日のブログの写真は全て、その特集号のものです。
プロレスが魅力あるコンテンツであり、「太陽にほえろ」「金八先生」を向こうに回して20%を超える視聴率で抑え込んでいた当時のプロレス人気は熱かった!
その後80年代はタイガーマスクの登場、長州力のブレイクもあり、新日本プロレスの黄金時代となります。TVでは「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「川口浩探検隊」「徳川埋蔵金発掘」などの特番が大人気を誇っていました。今のようにヤラセという「いやらしい」言葉を人々が使わなかった時代、今と比べてコンプライアンスも緩く民度も低かったかも知れない時代だったけれど、テレビ全盛時代は大勢がそれを囲み、放送を見ながら、あるいは翌日学校や会社であれこれ話題にして人々が触れ合っていた。そんな時代が確かにありました。
そんな時代の僕にとっての代表が、人間臭いプロレスであり、その時の記憶が甦る証拠品の1つがこの週刊ファイトです。
これは凄い本が出ることになりました。昨年10月、79歳の生涯を閉じたアントニオ猪木。この本は1960年の大木金太郎とのデビュー戦から1998年、ドン・フライとの引退試合、2000年のエキシビションマッチまで、40年に及ぶ全試合約4000の勝敗を網羅し、名勝負解説、ワザ図鑑、名言、カルトエピソードなど収録したA5判・416ページの大作です。これが本当に値打ちのある追悼本の最後を飾ることになりそうです。