大阪ミナミ・・ついこの間までは外国人の方が日本人より多かった。そこにはいかがわしいサービスもあれば、法律違反のモノの売買もあり、華やかさの陰には犯罪も多かった。昔も犯罪は多かったけれど、僕はあれほど外国人が闊歩していなかった、1980年代の大阪ミナミの繁華街の方が楽しかった。「心斎橋商店街」は、平和で誰もが歩くことが出来る街でした。道頓堀を超えて南側は好きではありませんでしたが・・。
これが、1980年代初頭の心斎橋商店街の主な店舗でした。
大阪のメインストリート、御堂筋の東側に並行して南北に走る道。東京の「銀ブラ」に対して大阪の「心ブラ」と昔は言われたほど、昼夜関係なく買い物客や観光客で賑わいました。
難波の髙島屋前から道頓堀川までが戎橋筋。この道頓堀に架かる橋が戎橋。グリコの看板のある別名引掛け橋です。そして道頓堀川の北から船場まどを心斎橋筋と呼びます。
80年代当時でも、大阪のショッピング街だったこの界隈は、大きな曲がり角を迎えていました。難波にできた「なんばCITY」や「虹のまち」に客足を奪われ、売上も頭打ちでした。とは言うものの、心斎橋には呉服、洋服、履物の老舗、名店街が頑張っており、パルコやソニータワービルといった若者向けのビルも完成し、繁栄を取り戻そうとしていたのです。
今はどれだけ当時の面影が残っているでしょう・・・。
BALは京都から進出したファッションビル。ROPEとJUNは、あの正統派。クレヨンは少女っぽい服が揃っている。ハイドパークは菓子や人形、バッグの店。上から下まで個性的なお店が揃っていました。
このビルの建設にアルバイトで携わったのが僕。完成、開店前には入口前の商店街の地面にへばりついた「ガム」や「ゴミ」を、「ケレン」と呼ばれる道具で削り落としました。若者が往来する中、地面にしゃがみ込んで人に手を踏まれそうになる雑踏の中で作業したのは大変でした。通行人には邪魔もの扱いされ罵倒もされ、喧嘩になりそうになったことも。
建設中は、貼ったばかりのタイルを友人が倒したり、塗りたてのコンクリートの上に足跡をつけてしまって左官屋さんに「おいおい」と困った顔をされたり。でも、そんな学生アルバイトの失敗にも、温かい眼差しの職人さん達との仕事は楽しかった。
ヨーロッパ通り(周防町筋)~この辺りはアメリカ村に対してヨーロッパ村と呼ばれ、このエリアでは心斎橋筋が成熟仕切ったという事情から、1本2本西を通る筋が活気に溢れていました。宗右衛門町、笠屋町、玉屋町、畳屋町といったナイトゾーンは、ヨーロッパ村の南地区を占めていました。
大阪府・兵庫県・京都府の3府県は21日、「まん延防止等重点措置」の適用を国に要請することを正式に決定。長引く世界的なコロナ感染で、自分や家族・友人が命を落とすことが無いようにとの願いが湧き上がります。会社はもっと欧米のように、真剣にリモートワークを実践できないのでしょうか。ある程度の規模の会社であっても、仕事=出社という古い考えに凝り固まった会社が多過ぎます。
いつの世の中でも秩序が崩れる、何かが終わる時は、どうでもよい人間が足を引っ張った時に置きます。時代と共に消えて行く職業があるのと同じで、時代の要請で休業を迎える職業があっても仕方がない。だからこその国の最低の補償です。多様性や少数派の権利ばかりを尊重する動きは、全体を誤った方向に動かすこともあると、僕は考えます。
京阪神・東日本・九州・・大震災や大災害の時、流通が止まり食料も物資も医療も不足した時、被災地では会社への出社を優先したのか?お酒を飲む権利を優先したのか?自然災害もウイルスも人命を危険に晒すという意味では同じです。しかし、前者は人には対処しかできませんが、後者は予防ができる!
僕の立場から見た日本に住む善良な多くの人々を守る為には、1部の常識・マナーを守れない人間は排除しても良いのではないか?全ての人が助からないのなら、1部の職業を制限するのではなく、マナーの守れないウイルス拡散に繋がると思われる危険分子の人々の行動を法的に制限することが妥当ではないのでしょうか?
人が休日に、友人と会ったりショッピングを楽しんだり、ブラブラ繁華街にウインドーショッピングを自由に楽しめる時は、いつ帰って来るのでしょうか?80年代心斎橋は、明日も続きます♪