チョコを贈る習慣が日本で作られたことも、欧米のバレンタインデーでは女性が男性に愛を告白する日ではなく、家族や友人の間でも、男性女性どちらからでも愛情を示す日だということも、もう皆さんご存知だと思います。
今の若い人は、生まれた時から2月14日はバレンタインデーとして刷り込まれているでしょうが、実際この習慣が日本に広まったのは、団塊の世代と、そのちょっと下の世代の女性たちのおかげだと僕は考えています。1970年代、僕が小学校高学年の時に、突如現れたのがこの習慣でした。その前年までは誰一人として、チョコレートを好きな男の子に贈っていません。この習慣を、僕は見たことも聞いたこともありませんでした。親からも、友人達からも、年上の先輩たちからも聞いたことがなかった。
それがある年、僕が小学校5年の時に、クラスの女の子が「これあげる」と、チョコレートの入った箱をくれました。これが僕の初バレンタインデーでした。
今調べてみても、70年代の数年間の間に、女子中高生たちの間で急速に広まり、80年代には主婦層にも広がったのが日本におけるバレンターンデーであり、バレンタインデーの定着は、チョコレート会社の陰謀でも何でもなく、若い女の子たちが自ら選択した習慣だったと、僕は考えています。
1936年の神戸モロゾフが新聞広告を出したり、1958年の新宿伊勢丹のメリーチョコレートフェアが起源とも言われていますが、どちらも国内に広く認知されるには至らず、60年代に大手製菓会社や百貨店、輸入雑貨店がフェアを開催するも、一般的には盛り上がらなかった。プレゼントもチョコレートとは限らず、チョコを贈る事が定着したのは、70年代の数年間に女子中高生たちが動いたから。これが日本の今日のバレンタインの真の起源だと、僕は考えます。
その後さらに、ホワイトデーが登場した時には、明らかにお菓子メーカーの作為的なムードが漂っていたし、そもそも女の子が「マシュマロなんかいらない!」と言ったことから、僕はマシュマロを贈ったことは一度もありません。ここでも便乗商法が成功したのは女の子自身の選択による、「義理チョコ」の登場だと考えます。
今では「友チョコ」というものまで登場しており、日本で最初に「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というところからスタートし、「未婚の女性から男性へ贈る」というコンセプトも当たらず、企業の思惑の外にいた若い女の子から火がついたという点が、とても興味深いと思います。
そして、僕の世代こそが、バレンタインデーにチョコを贈るという習慣が日本に誕生する過程に、リアルタイムに立ち会っていた(笑)ことを、今懐かしく思い出します。
中学時代になると、「もらえない男子ともらえる男子がいる」のは差別だと、訳の分からない意見が教師の間に蔓延し、学校でチョコレートを贈ることが禁止されました。もてない奴がひがみから、そんな風習は止めろと言ったのではなく、明らかに教師側からのストップが「差別教育」の一環として行われました。
そこでクラスの女子たちが、しぶしぶ皆でお金を出し合って、クラスの男子全員に、森永のハートチョコを贈ったのです!僕が初めて見た「義理チョコ」がこれです。そして、その陰で本命チョコを、女子が意中の男子に贈っていました。あのハートチョコ、1枚だけ入っていて中身が見える、問答無用の「義理チョコ」の存在感を持つハートチョコは、今も義理チョコの定番なのでしょうか?
なんでもかんでも平等ではなく、なぜ自分はチョコをもらえないのかを子供のころに男子が考えれば、もう少し日本にも、欧米並みの紳士が誕生したというのに、日本の当時の教員たちが、日本社会の成熟を停めてしまったと僕は今でも考えます。日教組は本当にロクなことをしていません。
女の子は受け取ってもらえるかと勇気を出して渡す、本命チョコでなくても、お世話になった人にでも友人にでも、社交的な人だから自分から異性にバレンタインギフトを配ることが出来る。貰う男子の方もドキドキするし、貰えなかったらショックだし。今振り返ってみると、チョコを貰えた男子は運動ができるか、勉強ができるか、面白いやつか、何か得意なものがあるか、とにかく人に好意を持たれる人でした。蓼食う虫も好き好きとは言っても、やはりもらえないのには何かしら原因がある。それを改善しないと、大きくなって就活の面接で苦労したり、彼女のいない青春時代、結婚できないやもめ暮らしが待っていました。
自分を磨くために、コンチクショー!と思う機会は多いほどいいし、小さな頃から経験するから、大人になってメンタルをやられなくていい。
チョコを渡すのは、好きな人、大切な人に喜んでもらおうという気持ちからだと僕は思います。人の為にという気持ちです。「その人の為に・・・」という大切な気持ちをないがしろにして、「自分が傷つきたくない」という、自分の為を優先する教育が、日本の僕の子供時代には既に蔓延していた。だから、他人のために働く、他人のために学ぶという生き方や目標が分からない人ばかりの日本になった。己の利害しかないから、イライラする感情が蔓延する社会になったのです。
「バレンタインデーなんて・・・」そんな風に物事を斜に眺めるのではなく、もっと一喜一憂する2月14日であってほしい。それこそが人の心を取り戻す第一歩だと思います。「妻からチョコを貰えなくなって、もう何年経つかな」と思った方は、今日は何かしら反省すべきではないでしょうか。
昭和の時代、大阪の北摂にある「豊中」「箕面」の街は、住んでいる人間以外には馴染みが無いようにも思えましたが、デートにピッタリの場所が沢山点在し、道路の利便性が抜群に良かったこともあり、車が無ければ遊べない街だけど、車さえあれば最高のデートが約束されていた街でした。このブログでもどんどん紹介していますが、インターネットで検索すれば、今は無き青春の名店やデートスポットが山ほど出て来ます。
気分の良い空間と、美味い珈琲がいくらでもあったのが大阪は「北摂」地域でした。
阪急・箕面駅から南に一直線に走るあの有名なロマンチック街道。その途中を東西に走る、ロマンチック街道から新御堂筋に出て千里中央や江坂に向かう「小野原豊中線」(国道171号線と並行にある)の途中にあったのが、この喫茶店「ホットストリート」でした。
真っ黒な外装と、星条旗が人目を惹くお店で、店内はウエストコーストの雰囲気に溢れたデート向きの喫茶店でした。
何度も通ったお店でしたが、昭和50年代のある日、ロマンチック街道からこのお店に向かい、東へ一直線の小野原豊中線の急な上り車線を走っていると、突然対向車が目の前で中央線をはみ出して、僕が運転する車に正面衝突。その瞬間は景色が白黒になり、音は消え去り、全てがスローモーションに見えました。相手は僕の後続のタクシーにもぶつかり、歩道に乗り上げ停止。
僕はシートベルトもしていましたが、なぜか大破した「レビン」の後部座席に吹っ飛んでいました。ハンドルは運転席のシートに突き刺さっていました。後続のタクシーの運転手さんが、助手席の歪んだドアをこじ開けて救出、そして救急車を呼んでくれました。
事故原因は免許取り立て1週間の18歳の少年が、高校の卒業式の後、親の車に3人の友人を載せてドライブに。この道をはしゃぎながら通過中、助手席の少年が運転中の少年の腕を「しょうもない事言うなよ~、お前!」と、押したことによって対向車線の僕に激突したというもの。少年たち4人は無事で、「あ~恐かった」「ラッキー!」と喜び叫び、被害者のこちらには何の挨拶というか気遣いも無し!怒った僕がまともに歩けないのに、許せない!と殴りに行こうかとしたのを、タクシーの運転手さんが「兄ちゃん、喧嘩したらお金を取れなくなる、我慢や!」と止めてくれました。
車は全損となりましたが、僕のレビンは当時中古で買ったばかりでローンが30万残っていました。しかし、車の査定額がゼロ!(壊れていない状態で。年式が古かったので。)修理のしようがない全損車なので、お金で弁償するしか無いのですが、値打ちゼロのものにお金を払えないのが保険会社。しかも過失割合は100対ゼロなので、僕の保険は使えない。つまり、僕の治療費や休業補償、汚れた服や壊れた携行品にはお金が相手の保険の対人・対物から払われるのですが、僕の車に対しては1円も支払われない。ローン30万は残るのにです。しかも過失も当方はゼロなのに!
法律というか、保険の約款はどうあれ、車を壊したのは相手の少年の仕業ですから30万の支払いを迫りましたが、「こういう時に払うお金が無いから保険に入っていたので、お金は保険会社に言え」と少年の親。保険会社は「どんな場合でも保険が下りる訳ではありません」。両方が払わない。僕の事故車両を見た相手の親は、病院で「生きてくれていて良かった。どんなお詫びでもします」と言っていたのに、「息子は4月から社会人。車が運転出来ないと困るので物損事故にして欲しい、人身事故扱いにはしないでくれ」と懇願。
ところが人身事故扱いにしないと、病院代も後遺障害が出ても保険会社は金を払わないと言う。僕の車の残債30万すら払えない家が、「物損事故にしてくれたら、病院代は全額払います」と、健康保険も効かない医療費の支払いを申し出ても信用できる訳が無い。断って当然のことながら人身事故にすると、「お前のせいで息子は免停になった」と、見舞いや支払いどころか「人身事故を取り消せ!」と脅かしに来たほどでした。
幸い僕は当時柔道3段で鍛えた体もあったので、大きな怪我に至りませんでしたし、加害者が僕を脅かす為に雇った輩にも力ずくでお引き取り願えましたが、過失ゼロの降って湧いた貰い事故で30万円の損失を被りました。これもあり、その後損害保険(自動車保険や火災保険等)の特級資格まで取得しましたが、法律は知っている者の味方であり、正義や弱い者の味方ではないと学びました。
皆さん、事件・事故には本当に気を付けて下さいね!
1980年代前半、ミナミで評判になっていたお店がありました。今ではほとんどの人が忘れていますし、今ならこのお店は経営出来たのだろうかと思ってしまいます。ネットで例え少数の人間であっても何度も騒いで投稿すれば、それが大多数の声になり、まるで自警団の取り締まりよろしく、何でもコンプライアンスという言葉で物事が消されて行く世の中ですから。
大阪市南区鰻谷中之町のビルの1階にあった「ジャパン・エロチックベーカー」。男性自身や女性のおっぱい等を模ったエロックなケーキがズラリと並んでいました。男性自身のもののケーキはおっぱいのケーキとはレベルが違い、今ではケーキの写真であっても、こういう場所に出すと削除されるほどの生々しい出来映えでした。このお店はニューヨークに本店があり、日本の唯一の支店がここにあったのです。(ほとんど心斎橋で、ソニータワーの辺りから長堀通りの方角に歩いた場所にありました。)
当時、お店のカウンターで食べる人気ナンバーワンのケーキは、男性自身のショートケーキで300円。大学生のグループ等が複数で訪れた時は、それの巨大サイズのオーダーケーキ、3,500円が人気でした。
食べながら男子が「痛い」と声をあげたりして、仲間内で楽しく騒いでいる人たちが多かった。当時は主に女性客が中心で、楽しそうに訪れていましたし、カップルでも女性が男性を引っ張って来るのが大部分でした。男性の方が照れてしまっていましたし、僕もケーキを正視出来ませんでした。(笑)
オリジナルのエロティック・ケーキも注文すれば作ってくれ、お店には過去の傑作オリジナルケーキのアルバムが置いてあって参考に出来ました。
これは当時のお店の販促品である、紙のトランプです。
その後、いつの間にか、このお店と同じなのかどうか僕は行ったことがないのですが、このお店と微妙に名前の似た「エロティックベーカリー・ピカソ」という、同じようなお店があると聞きました。権利関係でマイナーチェンジしたのか、全く似て異なるお店なのかは分かりませんが、80年代前半にあったのは、間違いなく「ジャパン・エロチックベーカー」です。