青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

母校のレベルは下がって欲しくない!

2023-02-22 | 今を考える

母校の悪口を言っても仕方がないのですが、僕が通っていた当時が最も偏差値が高く、例えば英文科の偏差値は早稲田・慶応・上智の英文科偏差値とほぼ同じでした。

4年間、専門科目の教授は全員米英人で、教授と日本語で話したことがありませんでした。教科書も全部英語で書かれたものを使い、「卒業できるのか?」と、とんでもない所に来てしまったと後悔したほど。入学当時は教授に質問されても何を訊かれているかが分からず、留学しているのと何ら変わりませんでした。法学部は中央大学に次いで、弁護士になれる大学、日本第二位でした。

それが今や、体育会系に限らず部活をする学生も激減。関大卒なら入れた企業も、今は入社が困難に。いろんな意味で大学のレベルが下がっているのは明らかです。少子化で競争率が下がり、競争無き世界はレベルが下がるのは必然。もう少し若者の育成を、母校には頑張ってもらいたい。



関大前の「フタバボウル」。僕が入学する前から現在もあるボーリング場。夜中によく行ったものでした。今は・・この写真を見て分かるように、夜中の店頭の様子が最悪。ゴミをそのまま散らかすなんて、人としての常識に欠けています。関大と言えば、「バンカラ」がトレードマーク。こういうことをする連中はいなかったのですが・・。(いても、運動部の連中が掃除をしていました。)

母校は関大です・・・と言うのが恥ずかしくなりたくない。だから卒業してから今日まで、母校には些少ながらも寄付もしています。若者頑張れ!時代は君たちのものです!


仮面ライダー 資料写真集1971-1973

2023-02-21 | 本は友達・読書も大切です!

仮面ライダー生誕50周年記念の資料写真集と聞いて、仮面ライダーごっこを楽しんだ僕は、8,800円という値段に怯むことも無く買いました!立ち読み出来ない本なので、中身を例によってご紹介します。

朝から大阪梅田の紀伊国屋書店に行くと・・・何と既に最後の1冊を幸運にも手にすることが出来ました。昨年から予約受付をしていたようで、その告知が壁にありました。知らなかった・・。ジュンク堂には未入荷なのか1冊もありませんでした。正式発売日は明日の22日ですが、紀伊国屋・新宿店では店頭に並んでいました。

1971年4月3日から1973年2月10日に放送された不朽の特撮TV作品『仮面ライダー』の資料写真集が、庵野秀明(映画『シン・仮面ライダー』脚本/監督)責任編集により発売と聞いて楽しみでした。表紙の第1話「怪奇蜘蛛男」の時の旧1号ライダーの写真を見て、心がウキウキしました。

リアルタイムで第1話を観た時、ウルトラマンとは違う仮面ライダーの素早いアクションに心を鷲掴みされたことは忘れられません。旧1号からV3まではリアルタイムで楽しみ、ライダー・カードもコレクションしました。X、アマゾンと続く中、次第に興味を失いましたが、ストロンガーの最終回に近づき懐かしいライダー達が登場するのに心を動かされ、最終回「栄光の七人ライダー」はしっかり観ました!

僕の子供時代に楽しんだTV番組の最後を飾る作品が、仮面ライダーです。万博での「死神カメレオン」のロケ現場も観に行きました。六甲ロケにも。

放送当時の特写写真、番宣用スチール等1000点以上、石ノ森章太郎によるデザイン画をはじめ当時の貴重な資料も掲載されていますが、その中にはそういったロケ現場でのスチール写真が含まれています。322ページもの重く分厚い本です。写真集と言っても、「資料」なので、大人こそ楽しめる本だと推薦します。

すぐに入手不可になりそうなので、今の内に入手されることを強くオススメします。オークションなんかでいづれ高値で取引されるんだろうな・・・。


コーヒーショップ「樹々」~建築家:岡山伸也設計

2023-02-20 | 昭和の喫茶店

国道171号線。石橋界隈から阪急箕面線と並行し、箕面の「牧落」までの間は、1970~80年代はとても賑わっていました。90年代以降は人や車の流れが171号と並行する、更に南の中央環状線(大阪モノレールが上を走っています)に移ってしまい、ロマンチック街道の発展と共に171号線沿いは寂れて行きます。

箕面スイミングスクール、その隣の家具屋(現ニトリの場所)、マクドナルド、オートバックス、道草珈琲店、この半町の交差点の西の塊から東に向かうと「オレンジペコ」や、1階が外車ディーラーで2階が喫茶という粋なお店、古くからあった喫茶「ANTONIO」、ゴルフ用品の「つるや」、九州ラーメンの「副将軍」、レンタルビデオ店は4店舗も半町~牧落間にありました。

その中でもひときわ異彩を放っていた建物がありました。

今はこの建物すら残っていませんが、喫茶店らしからぬ奇異な外観が目印の建物がありました。それがコーヒーショップ「樹々」でした。

当時その名を馳せた建築家・岡山伸也氏の設計により、1978年にオープンしました。氏はレストラン ニューポート(大阪、長田)、レストラン ロッキー(東大阪市)、グラフィック・デザイナーの家(大阪市住吉区)、emergence aoyama complex(東京、南青山)等の建築デザインや、多くの喫茶店のインテリアデザインも手掛けていました。

心持ちハイテックなインテリアと、高い天井から降り注ぐ自然光に和む。こんなお店は都会の街中では、なかなかお目に掛かれませんでした。

当時は水曜が休みで、朝9時から夜10時まで営業していました。道路の盛衰は時代と共に移り変わります。神戸から北摂を抜け、京都にまで通じる国道171号が、いつか再び賑わい、その中にこういうお店が数軒ある。そんな時代が戻って欲しいと願っています。

 


アントニオ猪木「永遠の闘魂、激闘伝説」中身拝見!

2023-02-18 | 本は友達・読書も大切です!

2月20日発売、ベースボール・マガジン社の写真集「アントニオ猪木~永遠の闘魂、激闘伝説」が、既に昨日より1部書店には並んでいます。猪木追悼の最後の1冊を飾るにふさわしい箱入りの、豪華な装丁(そうてい)の1冊は値段も7,700円と高額で、ファンでも購入に躊躇するかも知れません。しかも、本はラッピングされているので、中身を見ることが出来ない!気になって仕方がないファンの方もいらっしゃると思います。

僕はこの際なので、思い切って購入しました。結果は「当たり!」です。

日本プロレスの若手時代から東京プロレス時代の猪木。BI砲の猪木もしっかり押さえられています。

猪木の名勝負と言われている試合は、そのほとんどが網羅されています。何よりも嬉しいのは、写真の1枚1枚が大きいので迫力があり、猪木の表情・躍動感が伝わって来る元気の出る書籍だという事。

近年の猪木をまとめた本や、昔の名勝負集の類の本は、どうしても1点1点の写真が小さい。そこを解消しながらも、つまらない写真は極力省き、通のファンでも懐かしく眺めることが出来る写真が選定されています。

かつ、80年代の新日本プロレス黄金時代からのファンが楽しんだ光景も、押さえています。

また、猪木信者ならよくご存知の猪木らしい仕草、表情の写真もサラリと納められています。

それなりの値段の書籍ですが、ファンなら懐かしい満足の行く写真が多数納められており、何度か繰り返して眺めるほどに味が出て来る写真集になっています。そして、この写真集を眺めていると、思わず「この試合がもう1度観たい!」となって、本棚のDVDに手が伸びる事でしょう。

僕は自身が柔道に打ち込んで4段ですし、いろんな格闘技も長年観戦して来ました。明日の「BREAKING DOWN」も観戦します。しかし、一般人が憧れて練習の末にプロのリングに上がるのではなく、強くてどうしようもない人たちがリングに上がっていた時代の方が楽しかった。

オーディション等の場で怒鳴り散らしたり、煽りPVを作って強く見せるのではなく、強くて仕方がない人たちが、黙って東京都の電話帳を引き裂いたり、リンゴを握りつぶしたりするシーンに、子供の頃は素直に驚き、その強さに憧れました。古き良き時代の強くて仕方が無かったヘビー級の格闘家。その体や動きを見るだけでお金を払っても良いと思わせる選手たち。そういう昭和の雰囲気さえ嗅ぎ取れる1冊ですので、購入を迷われている方は思い切って買う事をオススメします。


大阪のチベット!道路整備が不幸を作った!

2023-02-17 | 昭和・懐かしい北摂の風景

大阪の北の果て、能勢町をご存知ですか?僕も1時期住んでいたのですが、「大阪のチベット」等と揶揄されもしましたが、町内全域が標高200m(天王地区は500m)地帯で大阪市内と6~10℃気温差があり、夏は涼しいものの、冬は氷点下まで冷え込むことが多い場所です。

上は平成15年の写真ですが、丹波篠山方面にも「るり渓」や「天の橋立」に抜けるのにも便利な主要道路となり、住民や観光客に大いに利用されていました。

問題はその町までの道路。国道173号線が開通したからこその場所で、それでも一庫ダムの周囲の数多くのトンネルを潜り抜けて辿り着く別天地。トンネルとトンネルを繋ぐ橋、また橋から成る道は「三国志」に登場する蜀の桟道そのものです。この国道が整備された為、田舎に家を買い不幸になった人がどれだけ多くいるでしょう・・・。

若い時、この田舎町に家を買った時は、休みの日にはゴルフ場まで車で5~10分というロケーションに、仕事を忘れました。子供たちはカブトムシやクワガタ、蛍、玉虫まで捕まえることが出来、小学校まで徒歩1時間という道のりは、彼らの足を鍛えてくれる。子供が大きくなったら家を売って、都会に出ればいいと考えていましたが、そんな話は夢物語で、この能勢地区は人生でも最悪の町でした。リーマンショックやダイオキシンの風評被害で、ローンが払えずに競売物件になる家が続出し、家は全く売れない地区です。バスも減便が進み、歳寄りは歩いてどこにも行けません。そして、現在では2022年(令和4年)4月1日過疎地域に指定されました。最悪の頭の無い町会議員たちの悪政の結果です。

僕は売れない家を能勢町に放置していましたが、勿論固定資産税はこの町を出てどこに住んでいても追いかけてくるので払いました。しかし、東京に住んでいても、この「能勢町の住民税」を払え!と言われた時は驚きました。貧乏な町なので、取れるものは何でも取ろうと言う政治です。間違いではありません。東京に戸籍を移して住み、東京で住民税を払って暮らしていても、能勢町に家があるため、その固定資産税(これは当たり前)だけではなく、能勢町の住民税も払い続けなければなりませんでした。

あの島田紳助氏は問題を起こして芸能界を去る前は、この町に大御殿を建てて住んでいましたので、つぶれかけた幼稚園を再建したりと町にかなり尽くしていました。

天王~福住間は江戸時代より「七曲峠」や「脚木摺峠」(すねこすりとうげ)とも言われて、足の脛がすれると言われるほどの急坂でした。明治43年に改修され「丹州街道」と名付けられました。

昭和58年(1983年)4月に天王トンネルが完成し、峠の中間地点までが開通。その後昭和60年に天王~福住間が開通して、一庫ダムに関連した新国道173号線の改修は完成しました。