明治24年(1891年)に発生したロシア皇太子傷害事件を、当時の世相を含め活写した吉村歴史文学の傑作。93年岩波書店版360頁の大作である。
当時の超大国、帝政ロシアの皇太子が滋賀県大津で観光中、警備の巡査に襲われて頭部を負傷するという大事件が発生する。
極東進出を伺う軍事大国ロシアと、近代化の緒についたばかりの日本の国力を考えると、この事件は未曽有の国難であった。
国賓として来日した皇太子ニコライへの官民を挙げての歓待ぶり、犯人津田三蔵の処分を巡る政界と司法との軋轢、津田の死の実態などを活写した歴史長編である。
特に、安保法制の違憲性が問題となっている昨今、犯人の処罰をめぐって、ロシアの報復を恐れ極刑(死刑)にすべしと圧力をかける政府に屈せず、法の下での処罰(無期)を貫き通した当時の法曹界の頑張りに共感するものがあった。
蛇足:大津市のHP「キッズのページ」に次のような記載がある。
大津事件~今から100年ちょっと前の明治24年(1891)5月11日、当時、超大国だったロシアのニコライ皇太子が日本観光の途中、大津に立ち寄りました。そのとき、警備中の巡査・津田三蔵が、持っていたサーベルで皇太子に切りつけたのです。
日本政府は、ロシアが攻めてくるのではないかと考え、その頃の法律を無視して、犯人の津田を死刑にしようとしました。しかし法律をまもる立場のトップにあった児島惟謙は強く反対し、その意見が通りました。事件現場の京町通には、それを示す小さな石碑が建っています。
蛇足2:この事件から3年半後、ロシア皇帝アレクサンドル3世の死去に伴い、ニコライ皇太子が即位しニコライ2世となった。
明治28年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を割譲させたが遼東半島については、ロシアを含む三国干渉により断念せざるを得なかった。こうして中国東北部において、日本とロシアが激突する日露戦争が勃発する。
一方、ニコライ2世は、1917年のソビエト革命により拘束され、翌年、革命政府により家族ととともに射殺され、激動の生涯を閉じる。