晴れ。最低気温2.5℃、最高気温7.3℃。
午後1時半から、高砂町の市民会館で「第28回いきいき!!桂至光の健康寄席」があり、聴いてきました。落語会「平成開進亭」による上演。
「酒の粕」「抜け雀」「崇徳院」の3席が披露されました。
会場となった3階和室には二十数名が集い、軽妙な語りと古典落語にアレンジが加えられた作品に笑いが起こっていました。
コロナ禍で笑い合える機会がめっきり減っていたのですが、久しぶりに多くの人の笑い声を聞くことができ、なおかつ自分も笑えたことが良かったです。
個人的には「崇徳院」が好きで、テレビの放送で一度聞いてから、すっかりこの演目のファンになっていました。
崇徳院の歌、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」が基調となっている上方落語で、オチは「割れても末に買わんとぞ思う」というもの。
これを機に久しぶりに『田辺聖子の小倉百人一首 続』に目を通してみました。以下は崇徳院の箇所の一部分のまとめです。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子。とはいうものの、父君はこの皇子に愛も親しみもなかった。〈あれはわたしの子ではない。おじいさまの子だ。だからわたしからいえば叔父にあたるのさ。叔父子だ〉
鳥羽天皇の中宮は待賢門院・璋子で鳥羽帝のおじいさまの白川院の養女として育てられたが、入内前に養父である白川院と通じていたという噂が立っていたらしい。とはいえ、白河院在世中は鳥羽帝は璋子との間にたくさんの皇子皇女をもうけるなど表面的には問題がなさそうだった。
時は白川院の時代で政治の実権は天皇にはなく、飾り物に過ぎなかった。第一皇子が5歳になると、鳥羽帝は白川法皇により譲位させられる。若干5歳の崇徳天皇誕生。
白川法皇が崩御すると鳥羽上皇が院政を執ることに。待賢門院との間がうとくなり、新しい寵妃・美福門院との間に生まれた新皇子が3歳になると帝位につける。これが近衛天皇で、崇徳院は引きずり降ろされるように皇位を追われた。22歳だった。
近衛天皇が17歳で奉じられると、鳥羽院と美福門院は崇徳院の弟皇子を帝位につける。これが後白川天皇。皇太子には後白河の皇子が立つ。崇徳院は皇太子だけは自分の皇子をと思っていたのに・・・。
崇徳院の怒りに藤原一族の内紛がからみ、武士も加わることに。
鳥羽院の崩御をきっかけに、崇徳院は後白河天皇に戦いを挑み、敗れて讃岐に流される。これが保元の乱(1156年)。
「流氷が去った北の海原・・・」との解説から情景を思い浮かべて掲句を味わうことができた気がします。
それでは今日はこの辺で。
皆様にとって明日が良い一日となりますように・・・・・