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昨晩、『この世界の片隅に上・中・下』を一気に読み終えました。感想を書きたいところですが、手に余るので、覚書として気づいたことなどを書いてみたいと思います。
主人公の浦野すずは絵が得意で少しぼーっとしているところのある、際立った美人というよりはきれいなイメージの人として描かれています。
終戦の前の年の2月、すずは生まれ育った広島から呉の北條家の長男・周作の妻となり、主婦として一家の台所を預かることになります。
戦時下で食糧事情が極端に悪くなる中、食べられる雑草を摘んできて調理法を工夫するなどして、健気に食卓を整えるすず。
持てる力を尽くして日々の暮らしを全うしているすずの姿からは戦争につきまとう悲壮感がなく、むしろ、楽しんでいる風にもみえました。
でも、すずが時限爆弾で右手を失い、託されて一緒にその場にいた義姉の娘が亡くなってしまったあとに自問する場面ではすずの心の叫びが描かれ、それは戦争という理不尽さに対する憤りを口にしたものと思えました。
皆が右手をなくしても命が助かったすずに「良かった」という言葉をかけてくれるのですが、どこがどう良かったのかさっぱりわからないというのがすずの本音だったのです。
表面をとりつくろう世の風潮がどこか嘘っぽく思われ、「歪(いが)んどる」と怒りをあらわにするすずは、物事の本質を見抜く確かな目の持ち主だと想起できました。
20年6月、時限爆弾により晴美さん(義姉の娘)が亡くなり、すずさんは右手を失いつつも意識がもどり、回復へ向かう場面での言葉を本から引用。
「良かった 熱が下がって」、
「ともかく不発弾で良かった」、
「しかし、治りが案外早うて」
「あんたが生きとって 」
「良かった、よかった、と言われるが、どこがどう良かったんかうちにはさっぱり判らん」
「歪(いが)んどる」
こうの史代氏はあとがきに執筆にいたる思いを率直に記しています。
「死が最悪の不幸」かどうか「死んだことがないので」分からないということにもハッとさせられましたし、「戦災もの」を死の数で悲劇の重さを量らねばならないものという捉え方も新鮮でした。
こうの氏はそれを理解できていないと感じたところから、戦時の生活が「だらだら続く様子」を描き、そこに確かにあったと思われる「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを見つけてとことん表現しようと試みられたようです。
自分につながる人々が呉で何を願い、失い、敗戦を迎えたのかの、これは一つの解釈であるとも書かれていました。
あとがき
わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。他者になったこともないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。
そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。
そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描くことにしました。そしてまず、そこにだっていくつも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。
呉市は今も昔も、勇ましさとたおやかさを併せ持つ不思議な都市です。わたしにとっては母の故郷です。わたしにつながる人々が呉で何を願い、失い、敗戦を迎え、その二三年後にわたしと出会ったのかは、その幾人かが亡くなってしまった今となっては確かめようもありません。だから、この作品は解釈の一つにすぎません。ただ出会えたかれらの朗らかで穏やかな「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。
正直、描き終えられるとは思いませんでした。
いくつもの導いてくれる魂に出会えた事。平成一八年から二二年の「漫画アクション」に、昭和一八年から二二年のちいさな物語の居場所があった事。のうのうと利き手で漫画を描ける平和。そして今、ここまで見届けてくれる貴方が居るという事。
すべては奇蹟であると思います。
有難うございました。
二〇〇九年二月 花粉の朝に
こうの史代氏について『この世界の片隅に 下』より引用
1968年9月、広島市生まれ。
1995年、『街角花だより』でデビュー。
主な著作は『夕凪の街 桜の国』、『長い道』、『ぴっぴら帳(全2巻)』、『こっこさん』。
好きな言葉は、「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」(ジッド)。