『悪の誘惑』は3部に分かれていて、「編者が語る」と「罪人の手記と告白」そして編者による短い附記から成る。第3部はジッドも「これがなければ」と言っているように完全な蛇足である。
第1部の「編者が語る」と第2部の「罪人の手記と告白」は、同じエピソードを編者の視点からと罪人自身の視点からの2つの方向から書き分けている。第1部では悪魔は登場しないが、第2部になると主人公の罪人=ロバート・ウリンギムに執拗につきまとう悪魔が登場する。
悪魔が登場しない第1部の異常なエピソードの謎のいくつかが、悪魔が登場する第2部の罪人自身の手記によって解明されていくという構造になっている。こうしたスタイルにゴシック小説が謎の解明としての推理小説に移行していく新しさをみることも可能である。ポオの作品にみられるように、推理小説はゴシック小説からこそ発生したのであるから。
しかし、この作品の真の新しさを決定づけているのは悪魔が登場する第2部を本当の物語として位置づけ、第1部の真実の解明として読む事も出来るとともに、悪魔が登場しない第1部の方を本当の物語とし、第2部を主人公の妄想として読むことも可能だという事実である。
ジッドはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と比較して次のように言っている。
「この作品の非現実的世界は、ヘンリー・ジェイムズの傑作『ねじの回転』の場合と同様、超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できるのである」
だからこそ第3部の墓あばきのシーンは不要なのである。確かに『悪の誘惑』を読んでいるとどうしても『ねじの回転』を思い浮かべてしまう。『ねじの回転』もまた、本当に屋敷に幽霊が出たのか、それとも登場人物の妄想であるのか判然としない小説だからである。悪魔は本当にいたのだろうか、それともそうではなかったのだろうか。
しかし、それでも怖い。『ねじの回転』も『悪の誘惑』も……。
第1部の「編者が語る」と第2部の「罪人の手記と告白」は、同じエピソードを編者の視点からと罪人自身の視点からの2つの方向から書き分けている。第1部では悪魔は登場しないが、第2部になると主人公の罪人=ロバート・ウリンギムに執拗につきまとう悪魔が登場する。
悪魔が登場しない第1部の異常なエピソードの謎のいくつかが、悪魔が登場する第2部の罪人自身の手記によって解明されていくという構造になっている。こうしたスタイルにゴシック小説が謎の解明としての推理小説に移行していく新しさをみることも可能である。ポオの作品にみられるように、推理小説はゴシック小説からこそ発生したのであるから。
しかし、この作品の真の新しさを決定づけているのは悪魔が登場する第2部を本当の物語として位置づけ、第1部の真実の解明として読む事も出来るとともに、悪魔が登場しない第1部の方を本当の物語とし、第2部を主人公の妄想として読むことも可能だという事実である。
ジッドはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と比較して次のように言っている。
「この作品の非現実的世界は、ヘンリー・ジェイムズの傑作『ねじの回転』の場合と同様、超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できるのである」
だからこそ第3部の墓あばきのシーンは不要なのである。確かに『悪の誘惑』を読んでいるとどうしても『ねじの回転』を思い浮かべてしまう。『ねじの回転』もまた、本当に屋敷に幽霊が出たのか、それとも登場人物の妄想であるのか判然としない小説だからである。悪魔は本当にいたのだろうか、それともそうではなかったのだろうか。
しかし、それでも怖い。『ねじの回転』も『悪の誘惑』も……。