玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(2)

2015年03月02日 | ゴシック論
『悪の誘惑』は3部に分かれていて、「編者が語る」と「罪人の手記と告白」そして編者による短い附記から成る。第3部はジッドも「これがなければ」と言っているように完全な蛇足である。
第1部の「編者が語る」と第2部の「罪人の手記と告白」は、同じエピソードを編者の視点からと罪人自身の視点からの2つの方向から書き分けている。第1部では悪魔は登場しないが、第2部になると主人公の罪人=ロバート・ウリンギムに執拗につきまとう悪魔が登場する。
 悪魔が登場しない第1部の異常なエピソードの謎のいくつかが、悪魔が登場する第2部の罪人自身の手記によって解明されていくという構造になっている。こうしたスタイルにゴシック小説が謎の解明としての推理小説に移行していく新しさをみることも可能である。ポオの作品にみられるように、推理小説はゴシック小説からこそ発生したのであるから。
 しかし、この作品の真の新しさを決定づけているのは悪魔が登場する第2部を本当の物語として位置づけ、第1部の真実の解明として読む事も出来るとともに、悪魔が登場しない第1部の方を本当の物語とし、第2部を主人公の妄想として読むことも可能だという事実である。
ジッドはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と比較して次のように言っている。
「この作品の非現実的世界は、ヘンリー・ジェイムズの傑作『ねじの回転』の場合と同様、超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できるのである」
 だからこそ第3部の墓あばきのシーンは不要なのである。確かに『悪の誘惑』を読んでいるとどうしても『ねじの回転』を思い浮かべてしまう。『ねじの回転』もまた、本当に屋敷に幽霊が出たのか、それとも登場人物の妄想であるのか判然としない小説だからである。悪魔は本当にいたのだろうか、それともそうではなかったのだろうか。
しかし、それでも怖い。『ねじの回転』も『悪の誘惑』も……。
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ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(1)

2015年03月02日 | ゴシック論
 しばらくヘンリー・ジェイムズはおいておこう。いずれ『ねじの回転』は再読しなければならないが……。ゴシックの本道に戻ることにしよう。ゴシック小説の元祖はイギリスのホレース・ウォルポールの『オトラント城奇譚』であり、その後に多くの類似作品が書かれたわけだが、私はウォルポールやベックフォードを読み返す気にはなれない。ウォルポールはあまりにも幼稚だし、ベックフォードはおとぎ話に過ぎる。
 ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』をまず再読することにしたのは、1824年に書かれたこのゴシックの王道に連なる作品が極めて近代的であり、数あるゴシック小説の中で異彩を放っているからである。ところでこの小説の邦題は『悪の誘惑』であるが、原題はThe Private Memoirs and Confessions of a Justified Sinnerであり、訳せば「義とされた罪人の手記と告白」となる。
 邦訳は国書刊行会によって1980年に「ゴシック叢書」の一巻として出版されている。「義とされた罪人の手記と告白」では長すぎて、他の作品とのバランスもあり「悪の誘惑」などというおかしなタイトルにせざるを得なかったのだろう。
この叢書には今では殆ど手に入らない有名なゴシック小説がたくさん収められていて、私がまだ読んだことのないアン・ラドクリフの『イタリアの惨劇』などとても欲しくなるが、高値で取引されているので残念だ(一冊10,000円以上もする)。
 ブルワー=リットンの『ザノーニ』は手に入れて読んだが、このあたりになるとお話が通俗的、ご都合主義的でよろしくない。ゴシック小説の多くはリットンやラドクリフのような通俗作家によって担われたわけで、これは仕方のないことではあろう。
 しかし、『悪の誘惑』は違う。数あるゴシック小説の中で最も文学的な質の高い作品だと私は思う。だからこそ2012年に国書刊行会創立40年を記念して、この作品だけが新装版として復刊されたのであろう。
 アンドレ・ジッドの序文が付いている。ジッドはそこでこの作品を手放しで賞賛している。その一節を紹介しておこう。
「これは読者の目を見開かさずにはおかない、尋常ならざる書物であり、宗教上の、そして又道徳上の問題に没頭している者ばかりでなく、全く別の理由から、心理学者や芸術家――就中、あらゆる形態に潜む悪魔的なものに甚しい魅力を感ずるシュルレアリストたち――こうした人々の熱狂的関心を惹くに恰好のものである」
『悪の誘惑』新装版(2012・国書刊行会)高橋和久訳

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ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』(7)

2015年03月02日 | ゴシック論
『鳩の翼』では副主人公マートン・デンシャーの優柔不断は最後の最後で覆される。デンシャーは死んだミリーから贈られた莫大な財産を放擲し、ケイトとの結婚の約束も破棄することで、男としての“決断”を全うするのである。
『明暗』の津田はどうなのだろう。津田もきっと最後に大きな決断を迫られることは間違いない。しかし、マートンのように自らの純粋を維持するために、自ら決断するということは考えにくい。
 マートンが能力もあり、人柄も優れた美男子としてジェイムズによって描かれているのとは対照的に、津田は漱石によってほとんど俗物として描かれているからである。津田のような主人公は漱石の小説の中では異例な人物であり、このような俗物がどのような行動を取るかについては図りがたいものがある。しかも『明暗』がジェイムズの『鳩の翼』のように決然たる意志の断行によって終わることも考えにくい。
 漱石の小説の結末は、いつでもはっきりしていない。『それから』もそうだし、とくに『道草』などは「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」という健三のせりふで終わっている。ほとんど捨て鉢というか、開き直りのような言葉である。主人公が優柔不断であるのと同じように、小説の結末も優柔不断である。いつでも消化不良なのだ。
『明暗』もまた『鳩の翼』のような決定的な決断によっては終結しなかったであろう。しかし『明暗』の結末を想像するときに、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』は必ず参考にすべき小説であると私は思う。
(この項おわり)

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