小ロマン派と呼ばれるグループの運動は革命を求める社会運動でもあったようだから、ボレルの本質はむしろそこにあっただろう。当時ユダヤ人を擁護し、黒人を同じ人間として評価するという視点こそは革命的であっただろうから、ボレルの作品の価値はそこにこそあったはずだ。
ではなぜ、死後すっぱりと忘れられてしまったのか? やはり文学の本当の力というものは、人間の普遍性をいかに深く穿っているかによるのであり、社会に対する義憤や呪詛だけでは成り立たないのである。ボードレールはそうではなかった。彼は本当の意味でサディズム的な倒錯者であったし、文学というものの普遍性を体現していた。
『シャンパヴェール悖徳物語』の中で2編だけ評価できる作品がある。ひとつは「解剖学者ドン・アンドレア・ヴェサリウス」であり、もうひとつは「学生パスロ――パリの物語」である。「ドン・ヴェサリウス」は渋澤龍彦によって初めて紹介された名作であるが、なぜ名作なのかと言えば、ボレルの残酷趣味がサディズム的な嗜虐嗜好に近づいているからである。
この作品はほとんど時代の拘束を逃れていて人間の持つ残虐性に肉薄しているのである。もうひとつの「学生パスロ」の方も時代の拘束を免れている作品で、こちらは人間の持つ普遍的な“自虐性”についてのボレルの到達点であろう。
どちらもあらすじについては書かない(前に言ったように)。私は作品の本質について批評を加えたいだけなのだから。
ところでこのボレル『シャンパヴェール悖徳物語』も一部ネット上で高値で取引されている。3000円というのもあれば、90000円なんてのもある。欲しい人は高くても欲しがる本だろう。90000円なら売ってもいいよ。
ではなぜ、死後すっぱりと忘れられてしまったのか? やはり文学の本当の力というものは、人間の普遍性をいかに深く穿っているかによるのであり、社会に対する義憤や呪詛だけでは成り立たないのである。ボードレールはそうではなかった。彼は本当の意味でサディズム的な倒錯者であったし、文学というものの普遍性を体現していた。
『シャンパヴェール悖徳物語』の中で2編だけ評価できる作品がある。ひとつは「解剖学者ドン・アンドレア・ヴェサリウス」であり、もうひとつは「学生パスロ――パリの物語」である。「ドン・ヴェサリウス」は渋澤龍彦によって初めて紹介された名作であるが、なぜ名作なのかと言えば、ボレルの残酷趣味がサディズム的な嗜虐嗜好に近づいているからである。
この作品はほとんど時代の拘束を逃れていて人間の持つ残虐性に肉薄しているのである。もうひとつの「学生パスロ」の方も時代の拘束を免れている作品で、こちらは人間の持つ普遍的な“自虐性”についてのボレルの到達点であろう。
どちらもあらすじについては書かない(前に言ったように)。私は作品の本質について批評を加えたいだけなのだから。
ところでこのボレル『シャンパヴェール悖徳物語』も一部ネット上で高値で取引されている。3000円というのもあれば、90000円なんてのもある。欲しい人は高くても欲しがる本だろう。90000円なら売ってもいいよ。