玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ペトリュス・ボレル『シャンパヴェール悖徳物語』(2)

2015年03月05日 | ゴシック論
 小ロマン派と呼ばれるグループの運動は革命を求める社会運動でもあったようだから、ボレルの本質はむしろそこにあっただろう。当時ユダヤ人を擁護し、黒人を同じ人間として評価するという視点こそは革命的であっただろうから、ボレルの作品の価値はそこにこそあったはずだ。
 ではなぜ、死後すっぱりと忘れられてしまったのか? やはり文学の本当の力というものは、人間の普遍性をいかに深く穿っているかによるのであり、社会に対する義憤や呪詛だけでは成り立たないのである。ボードレールはそうではなかった。彼は本当の意味でサディズム的な倒錯者であったし、文学というものの普遍性を体現していた。
『シャンパヴェール悖徳物語』の中で2編だけ評価できる作品がある。ひとつは「解剖学者ドン・アンドレア・ヴェサリウス」であり、もうひとつは「学生パスロ――パリの物語」である。「ドン・ヴェサリウス」は渋澤龍彦によって初めて紹介された名作であるが、なぜ名作なのかと言えば、ボレルの残酷趣味がサディズム的な嗜虐嗜好に近づいているからである。
 この作品はほとんど時代の拘束を逃れていて人間の持つ残虐性に肉薄しているのである。もうひとつの「学生パスロ」の方も時代の拘束を免れている作品で、こちらは人間の持つ普遍的な“自虐性”についてのボレルの到達点であろう。
 どちらもあらすじについては書かない(前に言ったように)。私は作品の本質について批評を加えたいだけなのだから。
 ところでこのボレル『シャンパヴェール悖徳物語』も一部ネット上で高値で取引されている。3000円というのもあれば、90000円なんてのもある。欲しい人は高くても欲しがる本だろう。90000円なら売ってもいいよ。


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ペトリュス・ボレル『シャンパヴェール悖徳物語』(1)

2015年03月05日 | ゴシック論
 グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』(1)に掲げた出口裕弘の「フランス幻想文学10選」のリストの第4位にペトリュス・ボレルの『シャンパヴェール悖徳物語』(悖徳は“はいとく”と読む。背徳と同じ)が挙げられている。以前に読んでこれは幻想文学と言うよりは残酷文学と位置づけるべきだとの記憶があり、それを確かめるために再読した。
 ボレルは19世紀フランスの小ロマン派と呼ばれる作家の一人で、ボードレールによって再評価された詩人であり小説家である。ボードレールにはその『悪の華』を読めば分かるように、残酷への嗜好、サディズムへの傾斜があり、ボレルの作品はボードレールに愛されるべくして愛されたと言えるだろう。
『シャンパヴェール悖徳物語』は八つの短編連作をまとめたもので、最初の序文とも言うべき「覚書」を除いて、血みどろの残酷さに満ちている。サドにも比べられることのあるボレルであるが、決定的に違うところがある。サドはそのサディズムと言われる嗜好によって残酷をこそ求めた(ボードレールにも同じことが言える)のに対し、ボレルは必ずしも残酷そのものを求めたわけではない。
 作品はどれもみな残酷極まりない結末を迎えるが、犠牲となるのは弱き者、差別される者であって、ボレルは彼らに対する限りない共感を血みどろの物語の中に凝縮させているのである。「訴追官ド・ラルジャンチエール氏」で犠牲となるのは、没落した高官の娘であり、「美しきユダヤ娘ディナ」ではユダヤ人娘が渡し守の毒牙にかかって犠牲となる。
 また『シャンパヴェール悖徳物語』には二つの植民地の物語(キューバとジャマイカ)が含まれていて、そこで犠牲となるのはアフリカから連れてこられた黒人たちである。ボレルがこれら黒人たちに対する白人の差別に憤り、果てしない共感を寄せているところからも、ボレルが残酷を愛した“倒錯者”、つまりはサドやボードレールのようなサディストでなかったことは明らかである。
「世界幻想文学大系」第21巻(国書刊行会・1980)川口顕弘訳


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