玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マシュー・グレゴリー・ルイス『マンク』(2)

2015年03月06日 | ゴシック論
 ホフマンの『悪魔の霊酒』だって通俗的と言えば通俗的だが、本家ルイスの『マンク』と決定的に違うのはその幻想を描くときの筆力であろう。
 ホフマンの幻想描写は彼のどんな作品を読んでも凄いと思う。他の幻想作家の追随を許さぬものがある。『悪魔の霊酒』の中からほとんど無作為に引用するだけで、こうだ。
「むかし出会ったことのある人間たちが、醜く歪んで気違いじみた顰め面を見せながら、立ち現れた。――どれもこれも、頭だけの姿で、その耳のすぐわきから生え出た蟋蟀の脚であたりを這いずり回り、わたしのほうをむいては陰険な目つきで笑うのであった」
 背中に虫酸が走りそうではないか。もっと凄い場面もいくらでもあるが、それはホフマンを取り上げるときまでとっておこう。一方ルイスの方は、幽霊が出現する場面であれ、悪魔が姿を現す場面であれ、少しも幻想的なところがない。ホフマンの狂気にも似た想像力はルイスにはみじんもないと言わなければならない。
 悪魔との契約の場面にしたってどこが恐るべきことなのか、感じられるようにはさっぱり書かれていない。むしろ富山太佳夫が言うように「なぜ滑稽なと言わないのであろうか」というような皮肉さえ言ってみたくなる。
 悪魔の使いであるマチルダが僧院長アンブロシオを誘惑する場面もちっともエロチックでないし、悪魔がアンブロシオを連れ去る場面も怖いと言うよりは滑稽なのである。ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』とはえらい違いである。
 しかし、それでもルイスの『マンク』は後のゴシック小説に決定的な影響を与えたのだった。
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マシュー・グレゴリー・ルイス『マンク』(1)

2015年03月06日 | ゴシック論
 マシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』を再読することにしたのは、このゴシック小説の古典とも言うべき作品が映画化されて、3年前日本でも公開されて評判になったからではない。ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』と比べて実際のところどうなのか確かめてみたかったからである。
『マンク』は1796年に発表され、『悪の誘惑』は1824年に出版されている。影響関係をみたかったのではなく、二つの作品の間の違いを確認したかったのである。しかし、『マンク』に影響されていないゴシック小説などあり得るのだろうか。
『マンク』はウォルポールやベックフォードの作品の流れをくんで成立した作品であり、E・T・A・ホフマンにさえ強い影響を与えた。それどころかホフマンの『悪魔の霊酒』(霊液とか霊薬とかの邦題があるが、私が持っているちくま文庫版のタイトルによる)の下敷きになった作品でさえあった。
 一読「通俗的だなあ」と思ってしまう。人物は類型的だし、ストーリーの先は読めてしまうし、勧善懲悪に徹してはいるし、何よりもあまりに読みやすくて、あっという間に読み切ってしまい、あとに残るものがない。
 ゴシック小説は大衆小説でもあったし、『マンク』はそうした特徴を最も強く持っている作品だとも言える。ルイスは当時の一般大衆に対して、彼らが最も欲するだろうところのものを、いささかどぎつすぎる薬味を添えて提出したのである。
 ゴシックの道具立てがすべて揃っている。古い城と幽霊、危機にさらされる美しい乙女、それを救おうとする貴族の若者、あるいは悪魔に誘惑される修道士、さらには厳格な尼僧院、そして極めつけは墓穴と地下牢である。
『マンク』はそうしたゴシック的閉鎖空間とそこへの幽閉というモチーフを集大成した作品であり、いかに通俗に過ぎても、ゴシックとは何かということを考えるときに読まずにすませる作品ではない(『オトラント城奇談』がそうであるように)。
「世界幻想文学大系」2-A・B(国書刊行会・1976)井上一夫訳
映画にあわせて現在は新装版が出ている。
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