玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『夢の遠近法』(4)

2015年03月10日 | ゴシック論
 作品集『夢の遠近法』の中でもう一編取り上げるとしたら、言うまでもなく「遠近法」という作品以外にない。「傳説」が文体においてゴシック的であるとしたら、「遠近法」はその想像力においてゴシック的である。
「遠近法」という作品は、ある男の書いた未完の小説草稿という形で提出されている。そのこと自体もゴシック的な趣向を感じさせる。男が描いているのは《腸詰宇宙》とその住人の姿である。ここで描かれている宇宙は円筒形をなしており、円筒の直径に限定はあるが、その長さには限定がない。
 円筒は無限の上方まで延び、一方で無限の下方まで錘を下ろす。一日に一回太陽が上方から降りてきて下方に向かっていく。太陽に続いて月もまた上方から降りてきて下方に向かう。しかし翌朝には、太陽は下から戻ってくるのではなく、再び上方から降りてくるのである。
 別に不思議なことではない。現実の地球上でも太陽は東から昇って西に沈むが、翌日西から引き返してくるようなことはない。無限の上方と無限の下方はどこかでつながっているのである。地球の表面が連続しているように、《腸詰宇宙》の内壁もまた連続しているのである。
 円筒形は球を幾何学的に展開したものだと思えばよい。この作品はそんな世界を想定した場所での思考実験のようなものであり、山尾の幾何学的な想像力を全面展開した作品ともなっている。
 宇宙は円筒形の内部に閉じこめられている。外側というものはない。山尾は地球を中心に見た場合の宇宙空間を裏返して見せているのである。そこにあるのは閉鎖空間としての宇宙であって、そこに住む住人はそこから出ることも出来なければ、その宇宙の秘密を知ることも出来ない。この作品は宇宙を閉鎖空間として描くことでゴシック的である。
 何かの寓話なのではない。山尾悠子の想像力はそのようには働かない。より自由にそして幾何学的にこそ働くのだろう。ポオもまた幾何学的な想像力を「メエルシュトレエムに呑まれて」や「落とし穴と振り子」のような作品で大いに発揮したが、山尾悠子の想像力のスケールに及ばない。それは山尾がポオのあとに成立し発展してきたSF小説の世界を知っているからなのだ。
 とにかく山尾悠子は、日本の現代作家の中でその想像力に於いて最も傑出した作家なのだと思う。


山尾悠子『夢の遠近法』(3)

2015年03月10日 | ゴシック論
 デジデリオの作品にはまったく動きというものがない。壮麗な建築群は、静かにそこに立って崩壊を待っているか、あるいは崩壊が終わったあとの静寂の中に置かれている。「偶像を破壊するユダ王国のアサ王(聖堂の倒壊)」という柱が崩壊するその瞬間を描いた作品もあるが、それすらストップモーションのように動きというものを剥奪されて描かれている。
 山尾悠子の「傳説」の書き出しは、デジデリオの作品のように動きを欠いているが、山尾はそれに動きを与えていく。小説は絵画と違っていつまでも動かないままでいることはできないから。
「神々の没落をとうに見送り果てた筈のこの世界に、或る日変化が起きたと思え
動くものが現れたのだ。地平を超え、罌粟粒ほどに小さく、しかし確実に動いてくるものが」
 山尾の描く動きは微細なものに過ぎない。終末の世界を思わせる廃墟の中を一組の男女が静かに進んでいく。いずことも知れぬ方向に向かって。「世界の涯ての涯ても、いつかは尽きると思え」――つまり世界の涯てさえ尽きるところへ向かって……。
 山尾悠子の作品はゴシック的である。デジデリオの作品がそうであるようにゴシック的である。漱石の「幻影の楯」もゴシック的だが、そこにはロマンスがあった。“ゴシックロマンス”というときのロマンスが。一方山尾の作品はロマンスを欠落させたゴシックに他ならない。
 山尾悠子の「傳説」における文体は死後硬直のように“古風”であるが、それがロマンスを欠いている限り十分に“古風”ではない。やはり山尾は現代の作家なのだ。
 山尾は「傳説」のことを自分で「神懸かり的な小説」と言っているが、確かに命令文の効果もあって、信じられないほどの緊張感を漂わせている。しかし作品は極めて短い。これほどのテンションを長い時間維持できるはずもない。こうして山尾のロマンスを欠いたゴシックは、小説であるよりも詩の世界に近づいていく。カタレプシーのような散文詩である。
(1) で『リテラリーゴシック・ジャパン』に触れたときに、「真にリテラリーゴシック(文学的ゴシック)と呼べるのは、高橋睦郎の「第九の欠落を含む十の詩編」と吉岡実の同じく詩編「僧侶」そして我らが山尾悠子の「傳説」の三編だけではないか」と書いたが、その意味が分かってもらえるだろう。現代にあってゴシックは詩としての方が成立しやすいということは言える。
 以上まだ山尾悠子の「傳説」にしか触れていない。先を急がなくてはならない。

「偶像を破壊するユダ王国のアサ王(聖堂の倒壊)」