作品集『夢の遠近法』の中でもう一編取り上げるとしたら、言うまでもなく「遠近法」という作品以外にない。「傳説」が文体においてゴシック的であるとしたら、「遠近法」はその想像力においてゴシック的である。
「遠近法」という作品は、ある男の書いた未完の小説草稿という形で提出されている。そのこと自体もゴシック的な趣向を感じさせる。男が描いているのは《腸詰宇宙》とその住人の姿である。ここで描かれている宇宙は円筒形をなしており、円筒の直径に限定はあるが、その長さには限定がない。
円筒は無限の上方まで延び、一方で無限の下方まで錘を下ろす。一日に一回太陽が上方から降りてきて下方に向かっていく。太陽に続いて月もまた上方から降りてきて下方に向かう。しかし翌朝には、太陽は下から戻ってくるのではなく、再び上方から降りてくるのである。
別に不思議なことではない。現実の地球上でも太陽は東から昇って西に沈むが、翌日西から引き返してくるようなことはない。無限の上方と無限の下方はどこかでつながっているのである。地球の表面が連続しているように、《腸詰宇宙》の内壁もまた連続しているのである。
円筒形は球を幾何学的に展開したものだと思えばよい。この作品はそんな世界を想定した場所での思考実験のようなものであり、山尾の幾何学的な想像力を全面展開した作品ともなっている。
宇宙は円筒形の内部に閉じこめられている。外側というものはない。山尾は地球を中心に見た場合の宇宙空間を裏返して見せているのである。そこにあるのは閉鎖空間としての宇宙であって、そこに住む住人はそこから出ることも出来なければ、その宇宙の秘密を知ることも出来ない。この作品は宇宙を閉鎖空間として描くことでゴシック的である。
何かの寓話なのではない。山尾悠子の想像力はそのようには働かない。より自由にそして幾何学的にこそ働くのだろう。ポオもまた幾何学的な想像力を「メエルシュトレエムに呑まれて」や「落とし穴と振り子」のような作品で大いに発揮したが、山尾悠子の想像力のスケールに及ばない。それは山尾がポオのあとに成立し発展してきたSF小説の世界を知っているからなのだ。
とにかく山尾悠子は、日本の現代作家の中でその想像力に於いて最も傑出した作家なのだと思う。
「遠近法」という作品は、ある男の書いた未完の小説草稿という形で提出されている。そのこと自体もゴシック的な趣向を感じさせる。男が描いているのは《腸詰宇宙》とその住人の姿である。ここで描かれている宇宙は円筒形をなしており、円筒の直径に限定はあるが、その長さには限定がない。
円筒は無限の上方まで延び、一方で無限の下方まで錘を下ろす。一日に一回太陽が上方から降りてきて下方に向かっていく。太陽に続いて月もまた上方から降りてきて下方に向かう。しかし翌朝には、太陽は下から戻ってくるのではなく、再び上方から降りてくるのである。
別に不思議なことではない。現実の地球上でも太陽は東から昇って西に沈むが、翌日西から引き返してくるようなことはない。無限の上方と無限の下方はどこかでつながっているのである。地球の表面が連続しているように、《腸詰宇宙》の内壁もまた連続しているのである。
円筒形は球を幾何学的に展開したものだと思えばよい。この作品はそんな世界を想定した場所での思考実験のようなものであり、山尾の幾何学的な想像力を全面展開した作品ともなっている。
宇宙は円筒形の内部に閉じこめられている。外側というものはない。山尾は地球を中心に見た場合の宇宙空間を裏返して見せているのである。そこにあるのは閉鎖空間としての宇宙であって、そこに住む住人はそこから出ることも出来なければ、その宇宙の秘密を知ることも出来ない。この作品は宇宙を閉鎖空間として描くことでゴシック的である。
何かの寓話なのではない。山尾悠子の想像力はそのようには働かない。より自由にそして幾何学的にこそ働くのだろう。ポオもまた幾何学的な想像力を「メエルシュトレエムに呑まれて」や「落とし穴と振り子」のような作品で大いに発揮したが、山尾悠子の想像力のスケールに及ばない。それは山尾がポオのあとに成立し発展してきたSF小説の世界を知っているからなのだ。
とにかく山尾悠子は、日本の現代作家の中でその想像力に於いて最も傑出した作家なのだと思う。