玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(3)

2015年03月26日 | ゴシック論
 よく知られているように『放浪者メルモス』は、いわゆる“入れ子構造”の説話によって構成されている。
 最初の「スタントンの物語」はジョン・メルモスが、伯父の所有していた古びて欠落の多い草稿を読むという設定になっていて、この部分だけは独立している。しかし本作の中心の一つをなす「スペイン人の物語」が始まると、説話の“入れ子構造”が際限もなく重層化していく。
「スペイン人の物語」の中に「印度魔島奇譚」が含まれ、その中にさらに「グスマン一族の物語」が含まれ、さらに「恋人の物語」が含まれるといった具合で、読者は自分がいったいどの説話の位相に現在いるのか、さっぱり分からなくなっていく。
 ゴシック小説や恐怖小説にこのような構造は珍しくはないのだが、マチューリンの場合は度を超しているのである。行ってみればこれは説話の迷路であり、迷宮なのであり、読者をその中に彷徨わせようという作者の仕掛けなのである。
『放浪者メルモス』については、18世紀イタリアの画家ピラネージの影響、特に「牢獄シリーズ」のそれが取りざたされる。それがどこへ続くとも知れず、複雑怪奇な迷宮のような牢獄を描いているからといって、マチューリンがこの小説の中に出てくる修道院の地下牢や異端審問所の牢獄のイメージをピラネージから得ているとは思わない。むしろそれは直接的にはルイスの『マンク』から来ているように思う。
 むしろ説話の迷宮の方がピラネージの描く牢獄の迷宮に、構造的に似ているのだと言わなければならない。マチューリンがピラネージの版画作品に着想を得ているのだとしたら、まさにそれは説話の構造においてであると思う。
『放浪者メルモス』にあっては説話の空間そのものがゴシック的なのだと言えるだろう。“入れ子構造”が深くなればなるほど、読者にとってそこからの脱出の道を探ることが難しくなるからである。
 閉ざされた空間――それがゴシック的な空間であるならば『放浪者メルモス』にあっては、説話の空間そのものが何層にも閉ざされた空間となっているのである。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ〈牢獄〉