玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(2)

2015年03月13日 | ゴシック論
 序章には多くのことが書かれている、というか“ほのめかされて”いる。本編を読む上で極めて重要で必要不可欠な情報がさりげなく書かれているので、注意深く読まなければならない。本編を読み終わったあとで、もう一度序章に戻る必要さえある。
 最も重要なのは、本編の手記を書いた主人公の女家庭教師(この人物には名前が与えられていない)が、依頼主であるロンドンの独身紳士(この人物にも名前が与えられていない)に“恋をしている”ことである。そのことは序章に出てくる“わたし”(作者自身に該当する人物)の言葉「なるほど、彼女は恋をしていたんだな」にほのめかされている。
 本編に入って彼女が赴任地である屋敷に到着し、子供たち(ロンドンの紳士の甥・マイルズと姪・フローラの姉弟)の世話係グロースさんに会う場面で、彼女は「わたしってすぐ夢中になる性なの。ロンドンでも夢中になりました」と口走ってしまう。これはロンドンに住む依頼主に「夢中になった」という恋の告白なのであり、そのことが全編に深く関わってくる。
 また当時の彼女の精神状態について「明らかに一種の魔法にかかっていたので……」というようなほのめかしもあり、彼女が恋の魔法の影響で心理的に心霊現象をみてしまうのだという解釈に根拠を与えている。
 もうひとつ。序章には「子供の出てくることが物語にねじの一ひねりを加えるとすると、子供が二人だったらどうかね?」「子供二人なら二ひねりになる!」というやりとりがあり、ここで出てくるanother turn of the screwという言葉こそがタイトルの由来になっているのである。
 だから『ねじの回転』などという邦題はもともとおかしいのだが、どういう訳かこれが定着してしまっている。今日多くの文庫本にこの作品が入っているが、すべて『ねじの回転』で統一されている。2012年の光文社古典新訳文庫がタイトルを変えてくれるのではと期待したが、これもまた『ねじの回転』だった。

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(1)

2015年03月13日 | ゴシック論
 ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をそれだけ読む体験と、彼の主要な長編小説をあわせて読む体験とでは、結果は違ったものになるだろう。『ねじの回転』にも確かに心理小説的な要素は色濃くあるが、『ねじの回転』だけを読んですますのでは、ジェイムズの本当の凄さが分からないのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズの心理描写は、はっきりものを言わない“ほのめかし”と、互いの腹のさぐり合いによって構成されているということは『鳩の翼』の項でも書いた。『ねじの回転』もまたそのような叙述に満ちているが、そうした技法が恐怖を喚起するために稼働されているという点で違っている。ジェイムズの『ねじの回転』を真に味わうためには、やはり彼の長編を読み、その方法について知っておく必要があるだろう。
 ところで、ジェイムズ・ホッグの項でアンドレ・ジッドが『ねじの回転』について「超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できる」と言っていることを紹介したが、ジッドはそれを『ねじの回転』を3回読んで初めて理解したことを告白してもいる。確かに最初読んだときよりも、2回目に読んだときの方が心理的な解釈に傾いてくる。しかも『鳩の翼』を読んだあとではなおさらだろう。
 しかし、『ねじの回転』は形式的にはほとんどゴシック小説の伝統をはずれていないと言ってもいいだろう。何よりも導入部である「序章」がそうだ。そこで『ねじの回転』の本編が、“わたし”の友人ダグラスがある家庭教師の女性に託された手記によるものだということが明かされている。
 多くのゴシック小説にみられる特徴は、その物語が古い時代のものであり、紆余曲折を経て奇跡的にその物語の草稿が今日にまで伝えられているといったような導入部を持っていることである。
 ゴシック小説はそうすることで物語の信憑性を仮構するのだが、一方で物語を今の時代から遠いところに置く。フィクションの有効性を高めるゴシック小説ならではの工夫となっている。
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(2005・創元推理文庫)南條竹則・坂本あおい訳