玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(6)

2015年03月04日 | ゴシック論
 ところでこの作品の背景となるのは、17世紀末のスコットランドである。イギリスにおける宗教改革の歴史を繙いてみれば、当時のスコットランドの宗派的勢力地図を理解できるのだろうが、そんな余裕は今はない。
 ジッドの序文は、ジッドも知らなかった事情、当時のスコットランドではピューリタニズムが猖獗を極め、スコットランド人の凄まじい狂信ぶりは当時から文学作品の多くに描かれていて、何もホッグが特別なことを書いたわけでもないという事実についても報告している。
 しかし、ホッグはピューリタニズムの狂信性を単なる“風刺文学”に仕上げたわけではない。確かに3人の狂信者、母ラビーナ、父ウリンギム、そしてその子ロバートは戯画化されて描かれている。しかし、ホッグの筆は戯画を突き抜けるのである。特にロバートの人物造形において。
 ジョルジュ・バタイユはこの作品について「怪物じみた小説」という小文を書いているが、バタイユが強調しているのはこの点である。バタイユは次のように言っている。
「この場合もっとも重要なことは、問題は一つの意図を実現すること(ピューリタニズムの世界を風刺に還元すること・注筆者)ではなく、未開拓の奇怪な生の領域にはいっていくことにあると見定めることである。驚異は可能なものすべてに対するこの上なく自由な突破口という意味をおびる」
 ちょっと翻訳が練れていないので分かりづらいが、バタイユはホッグが宗教的狂信の中に、我々自身の心中に潜んでいる病的な情念=狂気を普遍的な形で描いていると言いたいのである。バタイユはフィクションの有効性の例としてこの作品を、カフカやブランショの作品と同列なものとして賞賛してさえいる。
 今日世界は狂信と不寛容の時代に入ろうとしている。そんな時代にジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』を読むことは、極めて重要なことだと私は思う。
「ジョルジュ・バタイユ著作集」作家論1「言葉とエロス」の中の「怪物じみた小説」(二見書房・1971)山本功訳
(この項おわり)



ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(5)

2015年03月04日 | ゴシック論
 分身と言えば悪魔が最初にロバートの前に姿を現すのは、ロバートと寸分違わぬ姿形においてである。悪魔は相手に応じて自由に顔形を変えることが出来る。顔を変えることで相手に同化し、相手の心のすみずみまでを把握するのである。
だから『悪の誘惑』は“分身小説”でもある。分身小説といえば我々はエドガー・アラン・ポオの「ウィリアム・ウィルソン」を思い出すことが出来る。「ウィリアム・ウィルソン」は1839年に、『悪の誘惑』はそれに先行すること15年前の1824年に書かれている。
「ウィリアム・ウィルソン」はポオの代表作の一つとして言うまでもなく短編であり、『悪の誘惑』は長編である。二つを比べるのもどうかと思うが、ポオの「ウィリアム・ウィルソン」の分身は主人公ウィルソンの悪行や背徳行為に警告を与え、それを阻止しようとする言ってみれば良心の声であり、いかに主人公ウィルソンが「サタン、悪魔」と呼ばわろうが分身ウィルソンは悪魔ではない。
 ジッドはイギリスでの復刊本に序文を書いたT・アール・ウェルビーの次のような言葉を引いている。
「ポオはこれほどまでの恐ろしさ、或いはこれほどまでの精神的深みを湛えたものを生み出しはしなかったし、デフォーも奇怪極まるものをこれほど説得力を持って描きはしなかった」
 確かにポオのゴシック小説群には精神的内面といったものがない。形式的斬新さはあるかも知れないが、“精神的深み”がないのである。恐ろしい作品はたくさんあるが「ウィリアム・ウィルソン」はその中で不気味ではあれ、それほど恐ろしくはない作品と思う。分身が悪を体現してはいないからである。
「ウィリアム・ウィルソン」の分身は主人公のあずかり知らぬところで出現するのだが、『悪の誘惑』の分身はロバートの思想から、あるいは精神そのものから出現してくるのだから、はるかに恐怖は深いものとなる。小説の結末で悪魔の手から逃れようとするロバートの恐怖と苦悩を描く叙述の迫真性はポオといえども及ぶところのものではない。

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(4)

2015年03月04日 | ゴシック論
 主人公の罪人ロバート・ウリンギムはスコットランド・ダルカースルの領主で、信仰心薄い快楽主義者ジョージ・コルウァンと狂信的な宗教改革の信奉者であるラビーナとの間に生まれた、父と同名のジョージの弟である。しかし、ロバートは父ジョージに嫡子として認知されない。
 どうもロバートの本当の父親は母ラビーナの宗教心に強い影響を与えたウリンギム牧師であるらしい。だからウリンギム牧師はロバートにウリンギムという洗礼名を与えたのだろう。ラビーナは新婚早々、ジョージがお祈りを上げないことを理由に新婚の床を拒絶し、すぐに別居生活に入るから、どうして兄ジョージが誕生したのかいささか疑問は残るが、まあいいだろう。もっとあり得ないのは弟ロバートが父ジョージの子であることなのだ。
 ロバートは狂信的な両親に実質的に育てられ、両親以上に狂信的な若者に成長していく。両親の狂信ぶりは常軌を逸していて、いささか戯画化されて描かれているとはいいながらも、圧倒的なリアリティがある。それこそがロバートの悪魔を生んだのである。悪魔はロバートの分身に他ならない。
分身たる悪魔は極端に不寛容な教義をもって、ロバートに兄殺しや父殺しを唆すが、その教義とは「神に選ばれた者は、神の意志によって生きるのであるから、過ちを犯すことはあり得ない」というものであり、ロバートこそ神に選ばれた者だというのである。また「信仰薄き罪人たちは一刻も早く殺してしまった方が、害悪が少なくてすむ、それこそ神が喜びたもうところのものだ」とも悪魔はロバートを教唆する。
しかし、悪魔の教義は元を正せばウリンギム牧師の狂信に発していて、父母によってロバートの中に植え付けられたものである。悪魔はロバートの分身なのであり、狂信が生んだ極端な教義は悪魔の唆しと言うよりもロバート自身に内包された思想なのである。
 このあたりをホッグは極めて重層的に描いていて、思想小説のような趣もある。ホッグは宗教への狂信こそが生み出す悪魔的な思想や行為を描くことで、人間にとっての宗教やそれに対する狂信の実相を抉り出しているのである。