ところでこの作品の背景となるのは、17世紀末のスコットランドである。イギリスにおける宗教改革の歴史を繙いてみれば、当時のスコットランドの宗派的勢力地図を理解できるのだろうが、そんな余裕は今はない。
ジッドの序文は、ジッドも知らなかった事情、当時のスコットランドではピューリタニズムが猖獗を極め、スコットランド人の凄まじい狂信ぶりは当時から文学作品の多くに描かれていて、何もホッグが特別なことを書いたわけでもないという事実についても報告している。
しかし、ホッグはピューリタニズムの狂信性を単なる“風刺文学”に仕上げたわけではない。確かに3人の狂信者、母ラビーナ、父ウリンギム、そしてその子ロバートは戯画化されて描かれている。しかし、ホッグの筆は戯画を突き抜けるのである。特にロバートの人物造形において。
ジョルジュ・バタイユはこの作品について「怪物じみた小説」という小文を書いているが、バタイユが強調しているのはこの点である。バタイユは次のように言っている。
「この場合もっとも重要なことは、問題は一つの意図を実現すること(ピューリタニズムの世界を風刺に還元すること・注筆者)ではなく、未開拓の奇怪な生の領域にはいっていくことにあると見定めることである。驚異は可能なものすべてに対するこの上なく自由な突破口という意味をおびる」
ちょっと翻訳が練れていないので分かりづらいが、バタイユはホッグが宗教的狂信の中に、我々自身の心中に潜んでいる病的な情念=狂気を普遍的な形で描いていると言いたいのである。バタイユはフィクションの有効性の例としてこの作品を、カフカやブランショの作品と同列なものとして賞賛してさえいる。
今日世界は狂信と不寛容の時代に入ろうとしている。そんな時代にジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』を読むことは、極めて重要なことだと私は思う。
「ジョルジュ・バタイユ著作集」作家論1「言葉とエロス」の中の「怪物じみた小説」(二見書房・1971)山本功訳
(この項おわり)
ジッドの序文は、ジッドも知らなかった事情、当時のスコットランドではピューリタニズムが猖獗を極め、スコットランド人の凄まじい狂信ぶりは当時から文学作品の多くに描かれていて、何もホッグが特別なことを書いたわけでもないという事実についても報告している。
しかし、ホッグはピューリタニズムの狂信性を単なる“風刺文学”に仕上げたわけではない。確かに3人の狂信者、母ラビーナ、父ウリンギム、そしてその子ロバートは戯画化されて描かれている。しかし、ホッグの筆は戯画を突き抜けるのである。特にロバートの人物造形において。
ジョルジュ・バタイユはこの作品について「怪物じみた小説」という小文を書いているが、バタイユが強調しているのはこの点である。バタイユは次のように言っている。
「この場合もっとも重要なことは、問題は一つの意図を実現すること(ピューリタニズムの世界を風刺に還元すること・注筆者)ではなく、未開拓の奇怪な生の領域にはいっていくことにあると見定めることである。驚異は可能なものすべてに対するこの上なく自由な突破口という意味をおびる」
ちょっと翻訳が練れていないので分かりづらいが、バタイユはホッグが宗教的狂信の中に、我々自身の心中に潜んでいる病的な情念=狂気を普遍的な形で描いていると言いたいのである。バタイユはフィクションの有効性の例としてこの作品を、カフカやブランショの作品と同列なものとして賞賛してさえいる。
今日世界は狂信と不寛容の時代に入ろうとしている。そんな時代にジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』を読むことは、極めて重要なことだと私は思う。
「ジョルジュ・バタイユ著作集」作家論1「言葉とエロス」の中の「怪物じみた小説」(二見書房・1971)山本功訳
(この項おわり)