山尾の「思え」という命令文は漱石の場合のように、物語の時代の限定を求めているだけではない。それは物語の内部にまで入り込んでいて、物語の内容そのものを読者に想定することを求めているのである。作者の意図そのままに……。
「思う」のが嫌であれば、作者の意図のままに「思う」のが嫌ならば、我々読者は山尾の「傳説」という作品から即座に撤退する他はないのである。たとえば次のような情景描写に続く命令文をみよ。
「三百六十度の、不安な灰色の大俯瞰図――その何処にも動くものがない。天球は一枚のぶ厚い痰に似た膜、永遠の黄昏どきである物憂い日蝕のようだ。そして偏執的な細密画を見るような地平の涯てまでを刻みつくした石の大厦高楼群。この世界を領するものは、見捨てられたそれら建築群の豪奢と壮麗、ものわびしい廃墟美。大殺戮の果てたあとの、不吉な静寂。そして沈滞した憂悶の気分、それだけであると思え」
あらゆる物語には「これこれこうだと思え」という作者による命令が隠されている。それがフィクションであるから。しかし、山尾悠子は「これこれこうだ」と書かずに、「そう思え」と書く。山尾は読者への本来は隠されているべき命令ないし要請を露出させてしまっているのである。
最初からフィクションがフィクションであることが前提とされながら、作者は読者に対し、それが真実の物語であることをとりあえず信じること、あるいは信じるふりをすることを要請しているのである。
しかしそれだけではない。山尾悠子はこの廃墟の描写で、十七世紀のナポリで活躍した画家モンス・デジデリオの絵を参照しているのは明らかである。参照どころか、デジデリオの絵を言葉で語り尽くそうとしているのに違いない。山尾は読者をデジデリオの作品の内部に導き入れようとしているのである。
それがデジデリオのどの作品なのか。山尾の描写に一番近いのは「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」であるが、廃墟ばかりを描いたこの画家の作品ならどれでもいい。『夢の遠近法』のカバーに使われている「バベルの塔」という作品でもいいだろう。
『モンス・デジデリオ画集』復刻版(エディシオン・トレヴィル・2009)谷川渥監修
「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」
「思う」のが嫌であれば、作者の意図のままに「思う」のが嫌ならば、我々読者は山尾の「傳説」という作品から即座に撤退する他はないのである。たとえば次のような情景描写に続く命令文をみよ。
「三百六十度の、不安な灰色の大俯瞰図――その何処にも動くものがない。天球は一枚のぶ厚い痰に似た膜、永遠の黄昏どきである物憂い日蝕のようだ。そして偏執的な細密画を見るような地平の涯てまでを刻みつくした石の大厦高楼群。この世界を領するものは、見捨てられたそれら建築群の豪奢と壮麗、ものわびしい廃墟美。大殺戮の果てたあとの、不吉な静寂。そして沈滞した憂悶の気分、それだけであると思え」
あらゆる物語には「これこれこうだと思え」という作者による命令が隠されている。それがフィクションであるから。しかし、山尾悠子は「これこれこうだ」と書かずに、「そう思え」と書く。山尾は読者への本来は隠されているべき命令ないし要請を露出させてしまっているのである。
最初からフィクションがフィクションであることが前提とされながら、作者は読者に対し、それが真実の物語であることをとりあえず信じること、あるいは信じるふりをすることを要請しているのである。
しかしそれだけではない。山尾悠子はこの廃墟の描写で、十七世紀のナポリで活躍した画家モンス・デジデリオの絵を参照しているのは明らかである。参照どころか、デジデリオの絵を言葉で語り尽くそうとしているのに違いない。山尾は読者をデジデリオの作品の内部に導き入れようとしているのである。
それがデジデリオのどの作品なのか。山尾の描写に一番近いのは「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」であるが、廃墟ばかりを描いたこの画家の作品ならどれでもいい。『夢の遠近法』のカバーに使われている「バベルの塔」という作品でもいいだろう。
『モンス・デジデリオ画集』復刻版(エディシオン・トレヴィル・2009)谷川渥監修
「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」