玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『夢の遠近法』(1)

2015年03月07日 | ゴシック論
 ルイスの『マンク』で腹一杯になってしまった。とてもこのままイギリス・ゴシック小説を読み続けることは出来そうにない。
 ということで頭に浮かんだのは、現代日本の作家山尾悠子の作品である。山尾の作品は『リテラリーゴシック・ジャパン』(ちくま文庫・2014・高原英理編)に収められている「傳説」で初めて読んだ。
『リテラリーゴシック・ジャパン』には、古くは泉鏡花から小栗虫太郎、新しくは赤江瀑から金井美恵子などの様々な短編が収められているが、これらの中で真にリテラリーゴシック(文学的ゴシック)と呼べるのは、高橋睦郎の「第九の欠落を含む十の詩編」と吉岡実の同じく詩編「僧侶」そして我らが山尾悠子の「傳説」の三編だけではないか。
「傳説」はいきなり命令文から始まる。つまり
「憂愁の世界の涯ての涯てまで、累々と滅びた石の都の廃墟で埋まっている。まずはそう思え。」
 このような「……と思え」という命令文が「傳説」の中で何度も繰り返される。山尾自身これを夏目漱石の「幻影の楯」の冒頭部分から借りたと自作解説で言っているが、確かに「幻影の楯」の冒頭部分に3回命令文が出てくる。まずは書き出しの部分。
「遠き世の物語である。バロンと名乗るものの城を構え濠を環らして、人を屠り天に驕れる昔に帰れ」
次に2ページ目の四行目(「漱石全集」第二巻・岩波書店・1994)
「……楯の話しは此憲法の盛に行はれたる時代に起った事と思え」
3頁目の冒頭(同)
「……楯の話しは此時代の事と思え」
 漱石の命令文は読者に対して「物語の時代をそこに想定せよ」と命じるものである。読者に対して「物語はこれこれこういう時代に起こったのですよ。しっかり頭に入れてくださいよ」とお願いしているわけだ。しかし、山尾の場合は違う。
『増補 夢の遠近法』初期作品選(ちくま文庫・2014)

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マシュー・グレゴリー・ルイス『マンク』(3)

2015年03月07日 | ゴシック論
 それにしてもなんという文章だろう。『マンク』の大団円とも言える、暴徒による尼僧院破壊と炎上の場面は次のように書かれている。
「燃えている炎の山から、めらめらと建物の一部に火がうつる。古くてかわききっているので、あっという間に次から次へと、部屋が火の海になってゆく。あらゆるものを食いつくす火の力に、壁がすぐゆれはじめた。柱が倒れ、異徒の頭上に天井が落ちて、大ぜいの人間がその重みにつぶれる。尼僧院全体が炎に包まれ、惨禍と恐怖の地獄絵巻だった」
 このように平板で紋切り型なクライマックスの描写を読んだことがない。文章は簡略に過ぎて、ダイジェストを読んでいるかのようだし、描写が軽すぎてとても大団円の重さを持ちこたえることが出来ない。それは場面が墓穴と地下牢に移ってからも同じことである。
 もうひとつ勧善懲悪のことも言っておかなければならない。悪人はすべて罰を受けて死に、善人はすべて危機をまぬがれて平安と幸福を得るのである。
 ではなぜ、美しき処女アントニアが兄アンブロシオに強姦され、しかもナイフで刺し殺されなければならないのか。それはアントニアが悪魔の誘惑に負けたアンブロシオの妹だからであり、二人の母エルヴィラがアンブロシオに殺されるのと同断であろう。
 あるいはまた、エルヴィラはかつて恋愛上の罪を犯したことがあり、その罪はアンブロシアにはもちろんのこと、アントニアにも投影されているのである。
 ルイスは恋するロレンゾに死んだアントニアの替わりに、より美しい娘ヴィルジニアを与えて小説を終えている。
 いいかげんやめよう。なんというご都合主義、なんという悪趣味、なんというセンチメンタルだろう。それでもルイスの『マンク』は後の小説に大きな影響を与えた。『マンク』がゴシック小説の骨格を初めて完成させたからなのだということにしておこう。

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