玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

坂本光『英国ゴシック小説の系譜』(2)

2015年03月20日 | ゴシック論
 もうひとつの“旅”の方はもっと複雑なテーマである。『ケイレブ・ウィリアムズ』では主要な登場人物二人が行う旅が重要な意味を持つし、『フランケンシュタイン』でフランケンシュタイン(怪物の名前ではなく、怪物を造った科学者の名前)は自ら造った怪物を追って北極圏まで旅をすることになる。
 初期ゴシック小説の特徴は閉鎖空間とそこへの幽閉をテーマとしていることであり、その意味でウォルポールやルイスの作品は典型的である。そこには“旅”という要素は決して入ってこない。いったい誰が“旅”というテーマを持ち込んだのか、そして“旅”にはどういう意味があるのかということを考える必要がある。
 私はそのためにはまず、マチューリンの『放浪者メルモス』を取り上げるべきと思っているので、坂本が『ケイレブ・ウィリアムズ』と『フランケンシュタイン』しか取り上げないことには不満がある。ましてや坂本が転地療法だとか、「己の心情と目に映る景色とを重ね合わせることによって自己確認し、同時にそれによって心情の働きを増幅する」働きしか見ていないのには「なんて行儀がいいんだ」とさえ思ってしまう。このことについてはマチーュリンの『放浪者メルモス』を取り上げるときに、論じてみるつもりだ。
 ところで坂本が言っていることで、ゴシック小説が18世紀半ばから19世紀初頭までに書かれたものを狭義には意味しているにも拘わらず、20世紀を経て今日に至るまでそれが命脈を保っている、という意見には全面的に賛成する。私が追求したいのも実はそのことなのである。坂本はまえがきで次のように書く。
「おそらくは十八世紀から現在に至るまで、ゴシック小説は何事かを表現するために適切な物語であり続けたのだろうし、また時代に応じた変化に成功してきたのである」
 まさにそのことを私は証明してみたいし、これまで比較的新しい作品を取り上げてきたのはそのためである。私にとって比重はゴシックの伝統が尽きたと言われる現代の作品の方にある。ヘンリー・ジェイムズや山尾悠子まで取り上げてきたのは、狭義のゴシック小説よりも現代的なゴシックの方にこそ興味があるからなのだ。
(この項おわり)