玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(6)

2015年03月18日 | ゴシック論
 さて、どうか? ヘンリー・ジェイムズはこの『ねじの回転』を、ジッドが言うように、心理的な解釈のみに委ねたのであろうか。ようやく結論を書くときが来た。
 心理的な解釈に反論する根拠はいくつかある。第一に小説の最後の場面、女家庭教師がマイルズに対し必死で詰問し、ようやく真実を聞き出そうとする場面で、主人公に抱きしめられたままマイルズが絶命してしまうところ。
 心理的解釈だけでマイルズの死を説明することはとうていむずかしい。どうしても超自然的解釈がなければ、この場面は成り立たないのではないか。幽霊に取り憑かれたのでなしに、どうしてマイルズは死ぬのであろうか。
 あるいはまた、主人公がクウィントの幽霊の姿形の中に、知っているはずのない彼の特徴を細かいところまで見て取っているところ、さらにはジェスル先生の最初の出現のときに、それが誰の幽霊であるのか主人公が察知してしまうことにも、心理的解釈だけでは追いつかない部分がある。
 一方、幽霊を見るのはいつでも話者である主人公一人だけであり、グロース夫人、マイルズ、フローラが幽霊を見たとの記述は一度もない。というか慎重にそれだけは避けられている。だから主人公だけが彼らが幽霊を見たに違いないと思い込んでいるにすぎないのだと言うこともできる。
 また子供たちの女家庭教師に対する怒りも「秘密を知られてしまった」ことへの怒りではなく、子供としての人格を否定されたことへの怒りと読むこともできる。このような両義性が『ねじの回転』には至るところに潜んでいる。あるいは仕掛けられている。
 こうした両義性に決着をつけるための議論は不毛である。どちらとも読めるなら、どちらとも読めるようにヘンリー・ジェイムズが書いたのである。そこにこそジェイムズの偉大さがある。
 フィクションとはそういうものである。ゴシック小説や恐怖小説を好んで読むのは、必ずしも超常現象を信じているからではない。信じていなくても怖いし、その怖さの中に我々は小説を味わう根拠をみているのだから。
(この項おわり)