玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(2)

2015年03月24日 | ゴシック論
 オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は、美しい容姿の主人公ドリアンの隠された悪徳と、その悪徳を引き受けドリアンの替わりに年を取っていく彼自身の肖像画をめぐる物語である。
『放浪者メルモス』の冒頭に出てくる肖像画は、ジョン・メルモスによって「服装や顔貌がどうだというのではない。眼だ。見なければよかった。一度見たら終生忘れられない、とそんな気持のする眼だった」と語られる。しかもジョン・メルモスは伯父の臨終の部屋で、その男の姿を見るのである。ここに謎が集約されている。
“肖像画”というものもゴシックの道具立てとしてはかなり常套的なものであり、ゴシック小説以降の恐怖小説の中で繰り返し恐怖の仕掛けとして利用されることになるが、マチューリンの場合は先駆的と言わなければならない。
 ワイルドがそこに目をつけたのもまた慧眼と言うべきだろう。『ドリアン・グレイの肖像』は、ユイスマンスの『さかしま』の影響などが指摘されていて、いわゆる“世紀末文学”の一作品として位置づけられることが多いが、ゴシックの王道につながる作品でもあるのだ。
 ましてや肖像画がドリアン・グレイの悪徳を吸収して年を取ってゆき、ドリアン自身は全く老いていくことがないというような筋立てこそは、超自然的要素を繰り込んでゴシック的と言わざるを得ない。『放浪者メルモス』のメルモスも、最後に死に至るまで老いるということがないのである。
 坂本光は『英国ゴシック小説の系譜』で『ドリアン・グレイの肖像』について次のように書いている。
「超自然的な出来事が「秘密」を生み出し、その「秘密」が主人公を閉鎖的な非日常の世界へと追い込んでいく。これは十九世紀ゴシック小説に見られる典型的な特徴の一つであり、この作品が単なる世紀末的耽美主義の小説ではなく、ゴシック的な物語構造を持つことを示している」
 この坂本の発言にも全面的に賛成することにしよう。ゴシックの血統のためにも。
『放浪者メルモス』は『ドリアン・グレイの肖像』だけでなく、後続の作品の多くに影響を与えた。それが読んでいるとよく分かってくる。あとでそのことにも触れる予定だが、そんな体験も『放浪者メルモス』を読む上で重要なことであると思う。

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