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玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

谷川渥監修『廃墟大全』(4)

2015年06月02日 | ゴシック論
 それどころか『ローマの古代遺跡』には、コンスタンティヌス帝皇女廟の側面図と断面図なども描かれていて、これらは完全に建築家の仕事である(『空想の建築~ピラネージから野又穣へ展』参照)。
 ピラネージがローマの遺跡を描いた作品は、だから建築家としての職業意識に貫かれていたのであり、その技量たるや他の版画家の追随を許さない。どのような細部をも見逃さずに再現しようとする強い意志は考古学者としての姿勢をも感じさせる。
 だから、ピラネージの描く建築物は狂気になど冒されてはいない。そこがモンス・デジデリオの描く建築物との大きな違いなのである。谷川渥はデジデリオの描く建築物が「発狂している」と書いているが、確かにデジデリオの世界は建築物が崩壊しながら“発狂する”、あるいは狂気にとらわれた建築物が自らの崩壊を待ち望んでいる世界であると言える。
 それに対してピラネージの建築物は決して発狂などしていないし、自ら崩壊を待ち望んでもいない。ピラネージによるローマの遺跡は2000年近くにわたる自然の浸食、あるいは人間による破壊に耐えてきた悠久の歴史を自ら誇示しているのに他ならない。
 なぜピラネージが“狂人”と言われたのか。それはひとえに「牢獄」シリーズによっているのに違いない。あれほど端正で厳密なローマの遺跡を描いたピラネージが、なぜ「牢獄」シリーズのような想像力に完全に依拠した、ロマンティックな作品を描いたのか私には分からない。
 しかし、ゴシック小説の作者たちがピラネージのローマ遺跡の作品よりも、「牢獄」シリーズにインスピレーションを受け、それを模倣したのは明らかである。ホレース・ウォルポールは『オトラント城奇譚』のインスピレーションを「種々の作品」に属する「オペレ・ヴァリエ」に得たと言われている。
 この作品には人間の身長の10倍はあろうかという巨大な甲冑に身を固めた騎士の像が建築物の一部として描かれている。ウォルポールはこの像に着想を得て、作中で重要な位置を占める巨大な甲冑の幽霊を創造したのだろう。
 しかし、自余は「牢獄」シリーズである。ピラネージの「牢獄」シリーズの反響を、我々はルイスの『マンク』にも、マチューリンの『放浪者メルモス』にも、あるいはブルワー・リットンの『ザノーニ』にも聞くことができる。
 ピラネージが生涯をかけたローマの遺跡を描いた作品には、ゴシック小説に反響するなにものをも聞き得ない。ピラネージの偉大は「牢獄」シリーズよりも、ローマの遺跡を描いた多くの作品にこそあると私は思う。
『空想の建築~ピラネージから野又穣へ展』図録(2013,町田市立国際版画美術館)


〈種々の作品〉より〈オペレ・ヴァリエ〉部分


谷川渥監修『廃墟大全』(3)

2015年06月02日 | ゴシック論


 私がピラネージの作品に接したのはかなり早く、1979年に筑摩書房から『世界版画~パリ国立図書館版』が刊行された時に遡る。その第9巻が『ピラネージと新古典主義』であり、この巻の半ばはピラネージの作品紹介に充てられている。
『ピラネージと新古典主義』の箱には「牢獄」シリーズの「巨大なアーケードの穹隅にもうけられた四つの監視塔」の部分が印刷されていて、当時まだ20代だった私はゴシックで、ロマンティックなこの絵にいかれて買い求めたのだったと記憶している。
 編集者のジャン・アデマールがちょっと信じられないことを書いているので、長くなるが紹介したい。「ピラネージと『気まぐれ』の時代」と題した解説の冒頭である。
「20年前ならば、これほどまでにピラネージを重用する者はいなかっただろう。当時彼は、ドーミエと同じく、一般には知られていなかったのである。彼は100年以上もの間無視され続けていた。(中略)現在、それも僅か1955年以降のことであるが、ピラネージは最も偉大な版画家として再認識されている。ものを見る視点も変わり、彼は、ほとんど狂人とまでいわれた芸術家から考古学者へと変身したのである」(雪山行二訳)
 今日の我々からすれば、ピラネージが100年もの間忘れられていたということが信じられない。アデマールがこの文章を書いたのは1975年くらいと思われるが(『世界版画』には原著の発行年が記載されていないので、はっきりとは分からない)、彼の言葉から判断するに、少なくともフランスにおいては19世紀半ばから20世紀半ばにかけて忘れられた版画家だったということになる。
 ピラネージは18世紀半ばに始まる廃墟趣味を先導したが、廃墟趣味の終焉とともに忘れ去られていったということなのだろうか。そしてピラネージの作品は、ロマンティックな狂気に冒された作品に過ぎないとみなされたということなのだろうか。
「牢獄」シリーズだけを見るならばそのようなことはあり得たかも知れない。「牢獄」シリーズは奔放な想像力なしには描き得なかった作品だし、建築物にとって必要な構造的な厳密さも合理性も欠いているように見えるからである。
 しかし、ピラネージはもともと建築家であったのであり、ローマの廃墟に接して考古学者を目指した人でもあった。ローマの廃墟を描いた作品もまた想像力によって補填されている部分はあったとしても、建築家としての理性が失われることは決してない。
『世界版画~パリ国立図書館版』(1979、筑摩書房)編集解説 ジャン・アデマール/坂本満


谷川渥監修『廃墟大全』(2)

2015年06月02日 | ゴシック論
 ピラネージについては岡田哲史が書いている。岡田はピラネージの代表作である「牢獄」シリーズにはまったく触れておらず、「ローマの景観」など古代ローマの遺跡を描いた作品にしか言及していない。まるで、ピラネージの偉大さは「牢獄」によってではなく、「ローマの景観」によって証されると言わんばかりだが、実は私もそう思っている。
 岡田によれば、ピラネージは20歳で故郷のヴェネツィアを出てローマにやってくるが、失われゆく古代ローマの遺跡に魅了され、それを紙の上に再現しようという壮大な意欲を持つに至る。岡田は次のように書いている。
「そこでピラネージは、古代ローマ建築の遺跡から『語りかける廃墟の精神』を汲み取り、その創造の精神で自らを鼓舞し、古代建築に匹敵する壮麗な現代建築を紙の上に創作しようと意欲を燃やす」
 ピラネージは生涯に1000枚を超える作品を残したが、そのうち「ローマの景観」だけで137枚にも及び、『ローマの古代遺跡』『古代ローマの壮麗と建築』『古代ローマのカンポ・マルツィオ』という3冊の考古学書に描かれた作品を加えれば、ローマの遺跡を描いた作品は膨大な数に上る。ピラネージはローマの廃墟を描くことに生涯を費やしたのだと言ってもよい。
 古代ローマの廃墟を描いたいくつかの作品を見ていると、眩暈に襲われそうになることがある。「牢獄」シリーズについてはそういうことはない。たとえば『ローマの古代遺跡』の一枚「カエキリア・メテッラの墓の背面の景観」は、ピラネージの誇張された遠近法による壮麗(エドマンド・バークにならえば崇高)の実現の典型的な一例である。
 この作品が遠近法を現実よりも加速させていることは明らかで、しかも消失点を画面左横に設定している。そのため見る私はまるで左横に水平に“落ちていく”ような錯覚にとらわれてしまう。通常は真下にあるべき奈落の底が左横にあって、そこに向かって落ちていくような感覚に眩暈を覚えてしまうのである。
「古代マルスの競技場」では消失点は左斜め上に設定されているが、同じように遠近法が加速されているため、私は消失点に向かって落ちていくような錯覚に襲われてしまう。ピラネージの作品は高所恐怖症の私にとって、この上なく恐ろしい作品でもあるのだ。


〈カエキリア・メテッラの墓の背面の景観〉

谷川渥監修『廃墟大全』(1)

2015年06月02日 | ゴシック論
 ピラネージやデジデリオの廃墟画を、驚嘆とある種の快感をもって眺め暮らしているうちに、谷川渥監修の『廃墟大全』(1997年)という本があったことを思い出した。
 この本は発行がトレヴィルで発売がリブロポートになっている。どちらも堤清二率いる西武グループの傘下にあった出版社である。トレヴィルがコンテンポラリーな写真や美術の紹介に果たした役割はよく知られているが、このような分野にまで守備範囲を持っていたことは驚くに足りる。
 トレヴィルは1995年から1997年にかけて「ピナコテーカ・トレヴィル・シリーズ」という、ほとんど狂気じみた美術全集を出していて、その中には「廃墟画集」とも言うべき『モンス・デジデリオ画集』と『ジョン・マーティン画集』も含まれていた。この2点はトレヴィルの業務を引き継いだエディション・トレヴィルによって復刻されている。
さて、『廃墟大全』はゴシック小説と廃墟の美学というテーマに関してはそれほど画期的な部分はもっていない。そのテーマについては小池滋、志村正雄、富山太佳夫編集による『城と眩暈~ゴシックを読む』がすでに1982年に出ていて、遙かに先行している。国書刊行会の先見の明を再確認させられる(こちらの本もいずれ取り上げなければならない)。
『廃墟大全』の特徴はと言えば、それは18世紀ピラネージの時代、あるいは廃墟趣味が蔓延した18世紀イギリスのことだけでなく、テーマを現代にまで拡げていることである。ジャンルもSF、アニメ、映画、写真と多岐にわたり、地域もイギリス、フランス、ドイツ、日本、中国へと拡げている。
 滝本誠は映画と廃墟について書いているが、まずタルコフスキーを挙げ、ソクーロフを挙げ、そして我らがリドリー・スコットを挙げている。リドリー・スコットの映画における廃墟といえば、何よりもまず「ブレード・ランナー」を挙げなければならないし、滝本は「デュエリスト」の最後の決闘場面が城の廃墟を舞台としていたことを思い出させてくれている。
 私ならさらに「エイリアン」とその続編である「プロメテウス」における巨人族の巨大な宇宙船の廃墟を挙げたいし、廃墟映画そのものであるような「ブレード・ランナー」の価値を強調したいところだ。
 アニメと廃墟というなら、私は押井守の「イノセンス」を挙げたいが、永瀬唯は「エヴァンゲリオン」(見たことがない)しか取り上げていない。漫画なら大友克洋の「AKIRA」だろうが、『廃墟大全』は漫画をテーマにしていない。
 さらに、執筆陣は谷川を含めて17人と数多く、一人一人のボリュームが少なすぎることは指摘されなければならない。しかし、いくつかの示唆に富んだ論考がこの本には含まれていて、廃墟と現代ということを考える時には必須の文献と言えるだろう。ぜひ増補改訂あるいは新たに編集し直して、名実ともに“大全”としての充実を図って欲しいものだ。
『廃墟大全』(1997年、トレヴィル)谷川渥監修