夏目漱石はヘンリー・ジェイムズの兄である哲学者のウィリアム・ジェイムズの訃報に接して次のように書いた。
「教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学の様な小説を書き、ウィリアムは小説の様な哲学を書く、と世間で云われている位ヘンリーは読みづらく、又その位教授は読み易くて明快なのである」(「思い出す事など」)
漱石のこの評言は『アスパンの恋文』については当たっていない。漱石がヘンリー・ジェイムズのどの作品を念頭に置いて、こんな事を書いたのかということは、漱石が所持していた『黄金の盃』への書き込みの存在によって明らかである。漱石はジェイムズ後期の心理小説の傑作群を念頭に置いているのである。
ヘンリー・ジェイムズの作品が“難渋だ”という事は、前回書いたようにその短編作品については言えないし、哲学のような小説だとも言えない。『アスパンの恋文』についても同じことが言える。
『アスパンの恋文』は、これまた名前の与えられていない主人公「私」(文学研究者)がアメリカの大詩人ジェフリー・アスパン(架空の詩人である)のかつての恋人ジュリアーナ・ボルドローが所有する“アスパンの恋文”を手に入れようとする物語である。
「私」はミス・ボルドローが生きていて、ヴェニスに住んでいることを突き止め、名前を偽って彼女の邸宅に下宿させてくれるよう申し込む。その屋敷は300年は経とうという古めかしい大邸宅で、そこにジュリアーナ・ボルドローは姪のミス・ティータとともに隠棲している。二人はほとんど誰とも接触することもなく、まったく外出することもなくひっそりと生活している。
こうした設定は『ねじの回転』のブライ邸の場合のように、ゴシック的であり、ヴェニスの大邸宅は、叔母と姪の二人の世捨て人を閉じこめる閉ざされた空間なのである。
しかしそこで、超自然現象が起こるわけではない。そうではないのだが、ほとんど姿を見せない事においてジュリアーナは幽霊のような存在であり、姿を見せる時にはまるで幽霊のように出現するのである。だからこの小説を木村栄一が言うように、ゴースト・ストーリーと位置づけてもよいであろう。
「教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学の様な小説を書き、ウィリアムは小説の様な哲学を書く、と世間で云われている位ヘンリーは読みづらく、又その位教授は読み易くて明快なのである」(「思い出す事など」)
漱石のこの評言は『アスパンの恋文』については当たっていない。漱石がヘンリー・ジェイムズのどの作品を念頭に置いて、こんな事を書いたのかということは、漱石が所持していた『黄金の盃』への書き込みの存在によって明らかである。漱石はジェイムズ後期の心理小説の傑作群を念頭に置いているのである。
ヘンリー・ジェイムズの作品が“難渋だ”という事は、前回書いたようにその短編作品については言えないし、哲学のような小説だとも言えない。『アスパンの恋文』についても同じことが言える。
『アスパンの恋文』は、これまた名前の与えられていない主人公「私」(文学研究者)がアメリカの大詩人ジェフリー・アスパン(架空の詩人である)のかつての恋人ジュリアーナ・ボルドローが所有する“アスパンの恋文”を手に入れようとする物語である。
「私」はミス・ボルドローが生きていて、ヴェニスに住んでいることを突き止め、名前を偽って彼女の邸宅に下宿させてくれるよう申し込む。その屋敷は300年は経とうという古めかしい大邸宅で、そこにジュリアーナ・ボルドローは姪のミス・ティータとともに隠棲している。二人はほとんど誰とも接触することもなく、まったく外出することもなくひっそりと生活している。
こうした設定は『ねじの回転』のブライ邸の場合のように、ゴシック的であり、ヴェニスの大邸宅は、叔母と姪の二人の世捨て人を閉じこめる閉ざされた空間なのである。
しかしそこで、超自然現象が起こるわけではない。そうではないのだが、ほとんど姿を見せない事においてジュリアーナは幽霊のような存在であり、姿を見せる時にはまるで幽霊のように出現するのである。だからこの小説を木村栄一が言うように、ゴースト・ストーリーと位置づけてもよいであろう。