玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(3)

2015年06月30日 | ゴシック論

 マウリシオは16歳である。彼は同年代の男の子が好きな、何ものをも好きではない。女の子も映画もスポーツもバイクもおしゃれもまったく好きではないが、ラヴェルだけは好きなのだ。なぜかと問われてマウリシオは「ぼくと同じ名前だからだよ」と答えるが(マウリシオはモーリスのスペイン語名)、そんなことは本当の理由ではない。
 しかしマウリシオは母親が用意したロベール・カザドシュの「夜のガスパール」を聴こうともしない。すでに「夜のガスパール」はマウリシオの心の中に刻み込まれていて、彼の内部から聞こえてくる「夜のガスパール」だけが本物なのであって、レコードなど聴くに値しないのだ。
 16歳でラヴェルを好むということ、ジャズやポップスでもなく、よりポピュラーなクラシック音楽でもなく、ラヴェルを、しかもラヴェルの曲の中でもっともゴシック的な「夜のガスパール」を好むということは、ブルジョワ的感性の母親と対立する事を意味している。
 シルビアはマウリシオのことをまったく理解することができずに、難詰を重ねていく。ラヴェルを"頽廃的"と決めつけ(確かにそうだ、だからこそ素晴らしいのだと言われたら彼女はなんと答えるだろう)、マウリシオに向かって「そんなことじゃ、とても生きていけないわよ。戦いに勝ち、野心を抱き、なんと言えばいいか、角のある人間になろうとすれば、もっと逞しくならなきゃだめよ」と叱咤する。
 そのような言葉はマウリシオにとって暴力行為に等しい。「母親、父親、祖母、学校の仲間、先生といった自分との間にはっきり名づけられる関係をもっている人たち、あるいは自分にたいしてなんらかの権利をもっている人たちはひとり残らず、ぼくを凌辱しているんだ」とマウリシオは呟く。
 ここに文学や芸術というものが世界に対して敵対的に対峙していく原型を見ることが出来ると同時に、それこそがホセ・ドノソ自身の少年時代の体験であったであろうことを明瞭に窺うことができる。
 16歳で「夜のガスパール」を好むということは、少年時代からゴシック的感性を自らの内部に育んでいくことを意味している。ここで我々はホセ・ドノソが『夜のみだらな鳥』のエピグラフに掲げたヘンリー・ジェイムズ(父)の言葉を思い出さなければならない。
「精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」
 しかも父ヘンリーは、そのことに「分別のつく十代に達した者ならば誰でも」気づくのだと言っているではないか。
 だから、マウリシオは16歳でなければならないし、『夜のみだらな鳥』と並ぶドノソの代表作『別荘』という作品において、親たち、そして世界に対立していく33人の子供達もまた充分に子供でなければならない。


ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(2)

2015年06月30日 | ゴシック論

 シルビア・コルダイが息子マウリシオの口笛の曲をどのように聴くかということが、ここで重要な問題となる。シルビアは息子の吹く「夜のガスパール」を極めて正確に聴き取っているかにみえる。
「単純なメロディーの曲とはちがうものだった。楽句のあいだにじつにうまく沈黙がはさんであるので、沈黙が音楽そのものとかわらないほど重要なものになっていた。それらがなんとも説明のつかない形で結び合わされて、曲全体に繊細さと荒廃感、それに触知しがたいまでに透明な冷ややかさをもたらしていたが、シルビアはその口笛を聞いていて、背筋にぞっと冷たいものが走るのを感じた」
 むしろ正確に聴き取っているのはシルビアではなく、ホセ・ドノソなのであって、シルビアはただ単に"背筋に冷たいものを感じた"だけなのだろう。シルビアはこの曲をとうてい受け入れることができない。
 ブルジョア的感性の持ち主であるシルビアはこの曲を受け入れることができない。まして我が子がこんな曲を口笛で吹いていることに耐えられない。マウリシオが「あの聞いたこともない音楽を口笛で吹きながら、自分のまわりになんとも奇妙で、統一がとれ、理解しがたく、複雑きわまりない円環を作り出してその中に閉じこもって」いることが許せない。
 ホセ・ドノソはラヴェルの「夜のガスパール」にそのような本質を見ているのであって、子供には決して相応しくなく、むしろ危険な音楽の代表として「夜のガスパール」を選択している。ラヴェルの「夜のガスパール」は極めてゴシック的な本質を持った曲であって、そのような曲を他に想定することは難しいだろう。ラヴェルはベルトランの『夜のガスパール』のゴシック性をこそ際だたせようとして作曲したのであるから。
 だから、「夜のガスパール」の3曲〈オンディーヌ〉〈絞首台〉〈スカルボ〉はそれがいかに難曲であっても、マウリシオの口笛によって忠実に再現されなければならないのだ。
 ところで、3曲ともマウリシオが吹く場面は出てくるが、〈オンディーヌ〉について完全に間違った注がついているので指摘しておかなければならない。木村榮一は〈オンディ-ヌ〉に「H・W・ヘンツェ作曲のバレエ曲」などという割注をつけているが、完全な間違いである。言うまでもなくラヴェルの「夜のガスパール」の1曲としての〈オンディーヌ〉でなければならない。2曲目の〈絞首台〉については、マウリシオがそれを吹くことで極めて危険な行動に出ることになるが、そのことについては後ほど触れる。
 ところで、3曲目の〈スカルボ〉の名が出てくる前に、"甲虫"という言葉が頻繁に出てくるが、甲虫のイメージは〈スカルボ〉のそれに合致している。"スカルボ"はベルトランの創造したいたずらな妖怪であるが、scarboという名がscarab"スカラベ"(フンコロガシ)から来ていることは確実で、その読み替えがドノソ本人によるものなのか、訳者木村によるものなのかは、スペイン語を解しない私には分からない。