ただしこの作品にも評価すべき点はある。それはこの小説の中で起きる最大の事件、クララの兄セオドア・ウィーランドによる愛する妻と子供達の殺害に関わる部分である。
セオドア・ウィーランドは変死した父と同様狂信的なピューリタンであり、神の御前に出てその御意を知り、それを行いたいという激しい願望に生きている。そんなセオドアに神の宣託が下される。神は「汝の祈りは聞いた。信仰の証明として、汝の妻を渡せ。それこそ我が択ぶ犠牲」と要求し、ただちにセオドアは神の宣託に従って、妻子を殺害するのである。
この狂信よるセオドアの家族惨殺の引き金になったのが、カーウィンの引き起こした腹話術による超自然的現象であったとされているが、いかにもとってつけたようでいただけない。この小説の本当のテーマが狂信による妻子殺害にあるのであれば、そのような小細工は要らない。ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』のように、狂信の論理を突き詰めていけばよいのだから。
また、セオドアの狂気に至る過程がほとんど描かれていないのも、この小説が説得力を欠く要因の一つである。狂気の過程どころかセオドアの人となり自体も全く描かれていないに等しい。『悪の誘惑』における“義人”の場合のように、その狂信の有様が執拗に描かれるということがない。これでは狂信による妻子殺害がテーマとして深化されようはずもないのである。
ところでセオドアは、殺人を犯した後にも「神の命に従って正しいことを行ったのだ」と、まったく罪の意識を抱くことなく、自らの正当性を主張し続ける。そのことに対してクララは同情的である。それはC・B・ブラウン自身が狂信的なクエーカー教徒(ピューリタン最左翼の一派とされる)の子であったことと関係しているのであろう。
しかしクララの叔父ケンブリッジが言うように「セオドアが狂気のうちに止まっているならば、自分の正当性を信じ平穏な気持でいられる。しかし彼が正気に戻ったら妻子を殺害した罪の意識に耐えられずに自殺せざるを得ない」という見方は人間の狂信と狂気についての穿った考え方と言わなければならない。
だからセオドアをそのままにしておけばいいのに、偶然とはいえクララは兄セオドアに会うという愚を犯す。セオドアはクララの言葉に正気を取り戻し、自身の罪を認識し、自害して果てるのである。
このあたりが『ウィーランド』を小説として救える部分である。アメリカにおけるピューリタニズムの狂信とそれによる狂気に対する追究がそこにはあるからである。
セオドア・ウィーランドは変死した父と同様狂信的なピューリタンであり、神の御前に出てその御意を知り、それを行いたいという激しい願望に生きている。そんなセオドアに神の宣託が下される。神は「汝の祈りは聞いた。信仰の証明として、汝の妻を渡せ。それこそ我が択ぶ犠牲」と要求し、ただちにセオドアは神の宣託に従って、妻子を殺害するのである。
この狂信よるセオドアの家族惨殺の引き金になったのが、カーウィンの引き起こした腹話術による超自然的現象であったとされているが、いかにもとってつけたようでいただけない。この小説の本当のテーマが狂信による妻子殺害にあるのであれば、そのような小細工は要らない。ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』のように、狂信の論理を突き詰めていけばよいのだから。
また、セオドアの狂気に至る過程がほとんど描かれていないのも、この小説が説得力を欠く要因の一つである。狂気の過程どころかセオドアの人となり自体も全く描かれていないに等しい。『悪の誘惑』における“義人”の場合のように、その狂信の有様が執拗に描かれるということがない。これでは狂信による妻子殺害がテーマとして深化されようはずもないのである。
ところでセオドアは、殺人を犯した後にも「神の命に従って正しいことを行ったのだ」と、まったく罪の意識を抱くことなく、自らの正当性を主張し続ける。そのことに対してクララは同情的である。それはC・B・ブラウン自身が狂信的なクエーカー教徒(ピューリタン最左翼の一派とされる)の子であったことと関係しているのであろう。
しかしクララの叔父ケンブリッジが言うように「セオドアが狂気のうちに止まっているならば、自分の正当性を信じ平穏な気持でいられる。しかし彼が正気に戻ったら妻子を殺害した罪の意識に耐えられずに自殺せざるを得ない」という見方は人間の狂信と狂気についての穿った考え方と言わなければならない。
だからセオドアをそのままにしておけばいいのに、偶然とはいえクララは兄セオドアに会うという愚を犯す。セオドアはクララの言葉に正気を取り戻し、自身の罪を認識し、自害して果てるのである。
このあたりが『ウィーランド』を小説として救える部分である。アメリカにおけるピューリタニズムの狂信とそれによる狂気に対する追究がそこにはあるからである。