ニューマーチ邸で「私」は異常なほどの知性の“冴え”をもって、様々な人物を観察し、推論し、分析し、謎を追究していく。
この異常に冴えわたる知性というものを私は共有することができる。私もまたそのような知性の異常な昂進に捕らわれたことがあるからである。人が狂気に陥る一歩手前にある時、そうしたことが時に起こることがある。
私の周りにいる人間達の言動の意味するところが、異常に鮮明に理解されてくるという錯覚、あるいは私の周りの人間同士の関係のあり方が、数学の方程式を解く時のような悦びとともに、突然異常にクリアなものとして意識されてくるという錯覚の体験がそれである。
多分そのような体験を持たない人には、ヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はほとんど理解不能であるに違いない。そして、そのような体験の中で私は何の根拠もない“尊大さ”に捕らわれていったように思う。
しかし、その“尊大さ”は狂気と紙一重のところにあるものであって、真実のものではない。結局は度を超した知性の冴えということそれ自体が妄想であって、狂気の産物でしかない。
『聖なる泉』の「私」もまた異常に昂進した知性を自ら誇示することで尊大さを発揮してみせるが、それが妄想であるかも知れないということは、「私」自身によって絶えず意識されている。「私」は自らの“知的活動”を無謬なものだと自認するばかりでなく、他者に向かってそれを公言さえするのだが、一方でそれが壮大な妄想に過ぎないのではないかという不安に捕らわれて愕然とすることもあるのである。
小説の最後に「私」の理論は、ブリス夫人の突きつける“事実”によって否定されてしまうのだが、その“事実”でさえ小説内の事実であって、証拠を持たない。だから『聖なる泉』は永遠の謎の中に放置されたまま終結するだろう。『ねじの回転』がそうであるように。
ところで「私」の理論は、様々な人物の観察と分析に基づいていて、精緻を極めているというように小説内では設定されている。まるでよくできたゲームのように。
だから『聖なる泉』は図式的でゲーム的な作品であり、そうした意味で実験的、挑戦的あるいは挑発的な作品でもある。この作品を読んで、我々は『ねじの回転』のような完璧と言ってもよい完成度を感じることはとてもできない。
この異常に冴えわたる知性というものを私は共有することができる。私もまたそのような知性の異常な昂進に捕らわれたことがあるからである。人が狂気に陥る一歩手前にある時、そうしたことが時に起こることがある。
私の周りにいる人間達の言動の意味するところが、異常に鮮明に理解されてくるという錯覚、あるいは私の周りの人間同士の関係のあり方が、数学の方程式を解く時のような悦びとともに、突然異常にクリアなものとして意識されてくるという錯覚の体験がそれである。
多分そのような体験を持たない人には、ヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はほとんど理解不能であるに違いない。そして、そのような体験の中で私は何の根拠もない“尊大さ”に捕らわれていったように思う。
しかし、その“尊大さ”は狂気と紙一重のところにあるものであって、真実のものではない。結局は度を超した知性の冴えということそれ自体が妄想であって、狂気の産物でしかない。
『聖なる泉』の「私」もまた異常に昂進した知性を自ら誇示することで尊大さを発揮してみせるが、それが妄想であるかも知れないということは、「私」自身によって絶えず意識されている。「私」は自らの“知的活動”を無謬なものだと自認するばかりでなく、他者に向かってそれを公言さえするのだが、一方でそれが壮大な妄想に過ぎないのではないかという不安に捕らわれて愕然とすることもあるのである。
小説の最後に「私」の理論は、ブリス夫人の突きつける“事実”によって否定されてしまうのだが、その“事実”でさえ小説内の事実であって、証拠を持たない。だから『聖なる泉』は永遠の謎の中に放置されたまま終結するだろう。『ねじの回転』がそうであるように。
ところで「私」の理論は、様々な人物の観察と分析に基づいていて、精緻を極めているというように小説内では設定されている。まるでよくできたゲームのように。
だから『聖なる泉』は図式的でゲーム的な作品であり、そうした意味で実験的、挑戦的あるいは挑発的な作品でもある。この作品を読んで、我々は『ねじの回転』のような完璧と言ってもよい完成度を感じることはとてもできない。