チリの作家ホセ・ドノソがこよなく愛したヘンリー・ジェイムズのことがずっと気になっていて、この「書斎」でもこれまで『鳩の翼』と『ねじの回転』の2作を取り上げてきた。次は3作目となる『聖なる泉』である。
『聖なる泉』は1901年に書かれた小説で、『ねじの回転』(1898)の3年後の作品ということになる。『ねじの回転』と同様『聖なる泉』もヘンリー・ジェイムズの書いた“ゴシック小説”の一つとされているので、どうしても読まなければならない。
国書刊行会が出した「ゴシック叢書」にこの作品は含まれているのだが、「ゴシック叢書」はアメリカの作家の作品を多く収載している。C・B・ブラウンの『エドガー・ハントリー』、ハーマン・メルヴィルの『乙女たちの地獄』、ナサニエル・ホーソーンの『大理石の牧神』、ジョン・バースの『山羊少年ジャイルズ』、トマス・ピンチョンの『V.』などである。
ポオに言及するまでもなく、アメリカこそ本国イギリスのゴシック小説の伝統を、さまざまな形で継承した国であって、ヘンリー・ジェイムズもそうしたアメリカの作家の一人なのである。
「ゴシック叢書」にたとえば現代作家のトマス・ピンチョンの『V.』を入れたのは、かなり大胆な選択であったかも知れないが、『V.』だってゴシック小説の要件を充分に備えた作品である。『V.』はその舞台を地下下水道の迷路に展開させていて、そこは現代における地下埋葬所であり、地下牢に他ならないのであるから。
しかし、それに比べてもヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はゴシック小説の条件をまったく満たしていないかのように見える。舞台となるのはロンドンから汽車で一時間のところにあるニューマーチ邸、そこに数人の客が呼び寄せられて、何かが始まる。閉鎖的な空間で何が起こるのだろうか。
ところが、超自然現象が起きるわけでもなければ、ドラマティックな事件が起きるわけでもない。正しく言えばそこでは“何も起こらない”。何も起こらないゴシック小説などというものがあり得るのだろうか。
事件など何も起こらないのだが、ただ本編の語り手である「私」がニューマーチ邸に集まってくる人間達の関係性について、ある理論を打ち立てていくという経緯だけが語られる。
「私」は理詰めの推理と分析力を持って他の登場人物達と“対決”しながら――それは『鳩の翼』や『ねじの回転』ですでに見てきたような心理的対決――によって、理論を打ち立てていく。その心理的対決の場面がほとんど会話さえ欠いた分析のみで出来上がっているのは『鳩の翼』と同様だが、それがあまりにも極端に過ぎることが指摘されるだろう。
私は『聖なる泉』を3日で読んだが、このような心理小説に馴れていない人には、全く退屈で読み通すことはできないだろうと思う。私は『ねじの回転』は多くの人に読むことを勧めるが、『聖なる泉』に関しては読むことを勧めない。
初めてヘンリー・ジェイムズを読む人がこの作品を読んだとしたら、そのあまりの退屈さに辟易して、二度とジェイムズの作品に接することはなくなるだろうからである。
ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(1984、国書刊行会「ゴシック叢書」第9巻)青木次生訳
『聖なる泉』は1901年に書かれた小説で、『ねじの回転』(1898)の3年後の作品ということになる。『ねじの回転』と同様『聖なる泉』もヘンリー・ジェイムズの書いた“ゴシック小説”の一つとされているので、どうしても読まなければならない。
国書刊行会が出した「ゴシック叢書」にこの作品は含まれているのだが、「ゴシック叢書」はアメリカの作家の作品を多く収載している。C・B・ブラウンの『エドガー・ハントリー』、ハーマン・メルヴィルの『乙女たちの地獄』、ナサニエル・ホーソーンの『大理石の牧神』、ジョン・バースの『山羊少年ジャイルズ』、トマス・ピンチョンの『V.』などである。
ポオに言及するまでもなく、アメリカこそ本国イギリスのゴシック小説の伝統を、さまざまな形で継承した国であって、ヘンリー・ジェイムズもそうしたアメリカの作家の一人なのである。
「ゴシック叢書」にたとえば現代作家のトマス・ピンチョンの『V.』を入れたのは、かなり大胆な選択であったかも知れないが、『V.』だってゴシック小説の要件を充分に備えた作品である。『V.』はその舞台を地下下水道の迷路に展開させていて、そこは現代における地下埋葬所であり、地下牢に他ならないのであるから。
しかし、それに比べてもヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』はゴシック小説の条件をまったく満たしていないかのように見える。舞台となるのはロンドンから汽車で一時間のところにあるニューマーチ邸、そこに数人の客が呼び寄せられて、何かが始まる。閉鎖的な空間で何が起こるのだろうか。
ところが、超自然現象が起きるわけでもなければ、ドラマティックな事件が起きるわけでもない。正しく言えばそこでは“何も起こらない”。何も起こらないゴシック小説などというものがあり得るのだろうか。
事件など何も起こらないのだが、ただ本編の語り手である「私」がニューマーチ邸に集まってくる人間達の関係性について、ある理論を打ち立てていくという経緯だけが語られる。
「私」は理詰めの推理と分析力を持って他の登場人物達と“対決”しながら――それは『鳩の翼』や『ねじの回転』ですでに見てきたような心理的対決――によって、理論を打ち立てていく。その心理的対決の場面がほとんど会話さえ欠いた分析のみで出来上がっているのは『鳩の翼』と同様だが、それがあまりにも極端に過ぎることが指摘されるだろう。
私は『聖なる泉』を3日で読んだが、このような心理小説に馴れていない人には、全く退屈で読み通すことはできないだろうと思う。私は『ねじの回転』は多くの人に読むことを勧めるが、『聖なる泉』に関しては読むことを勧めない。
初めてヘンリー・ジェイムズを読む人がこの作品を読んだとしたら、そのあまりの退屈さに辟易して、二度とジェイムズの作品に接することはなくなるだろうからである。
ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(1984、国書刊行会「ゴシック叢書」第9巻)青木次生訳