チャールズ・ブロックデン・ブラウンの『ウィーランド』と『エドガー・ハントリー』については、八木俊雄が「アメリカン・ゴシックの誕生」という論考を書いている(国書刊行会『城と眩暈~ゴシックを読む』収載)。
この論考はC・B・ブラウンからウィリアム・フォークナーまでを射程に入れて書くことを目指したものだが、ブラウンの小説にこだわりすぎてその目的は途中で挫折している。しかし八木俊雄の言いたいことは、ブラウンを直接論じていない部分によく表れていて極めて説得力がある。
八木はアメリカにおけるゴシックの系譜とイギリスのそれとを比較している。アメリカの代表的な作家を列挙していくと、ブラウン-アーヴィング-ホーソーン-メルヴィル-トウェイン-ジェイムズ-ヘミングウェイ-フォークナー-ベロー-カポーティ-バース-ピンチョンという系譜が出来上がるが、ヘミングウェイとベローを除けばそれはそのまま“ゴシシズムの系譜”になるというのである。続けて八木は次のように言う。
「すくなくともアメリカでは、現実に起こりそうなことがそれらしく描かれるリアリズム小説が主流ではなく、どこか異常な、非日常的な、グロテスクな、極端なことが平気で展開するロマンスが主流である」
そしてそれはイギリスにおける事情とは大いに違っている。イギリスの作家の系譜を辿ってみると、リチャードソン-オースティン-エリオット-ジェイムズ-コンラッド-ロレンス、あるいはフィールディング-デフォー-スィフト-ディケンズ-ブロンテ姉妹-ハーディ-ウルフとなるが、このうち「ゴシシズムの気配がある」のは、ジェイムズとコンラッド、ブロンテ姉妹だけということになる。しかもジェイムズはアメリカ人(ヘンリー・ジェイムズはアメリカで生まれそこで活躍した後、イギリスに移住しているからどちらにも名前が出てくる)、コンラッドはポーランド人なのである。
ゴシック小説の元祖はイギリスであるのに、イギリスの主要作家の系譜の中にゴシック小説が位置づけられることはないと八木は言う。だからホーソーンの『緋文字』やメルヴィルの『白鯨』などがアメリカ文学史で占める高い地位を、ウォルポールの『オトラント城奇譚』やマチューリンの『放浪者メルモス』が占めることはとても考えられないことなのだ。
八木はこれと同じ現象を宗教上の歴史に見ている。英国国教の反主流派であったピューリタンが、新大陸に渡って絶対的な主流派となり、その精神が今日まで続いているというアメリカの歴史である。八木はさらに次のように書いているが、その指摘はおそらく正しいし、アメリカにおけるゴシックの展開にとって最も重要な部分を押さえていると私は考える。
「もしこの文学のジャンル(ゴシック小説のこと)が恐怖と夢想を共通項とし、エトスにおいてプロテスタント、パトスにおいてロマンチックなジャンルであるとするなら、またもし宗教の次元で失ったものを空想の次元で奪回しようという想像力の営みであるとするなら、この「新しい小説」はもともとアメリカという国の精神風土とうまが合っていたのだ。アメリカとは、元来が宗教上のロマンチシズムであるプロテスタンチズムの、そのまた純粋派のピューリタニズムの、神の王国をこの世に来たらそうという極端な夢が新大陸の荒野に生み落とした国ではなかったか」
この論考はC・B・ブラウンからウィリアム・フォークナーまでを射程に入れて書くことを目指したものだが、ブラウンの小説にこだわりすぎてその目的は途中で挫折している。しかし八木俊雄の言いたいことは、ブラウンを直接論じていない部分によく表れていて極めて説得力がある。
八木はアメリカにおけるゴシックの系譜とイギリスのそれとを比較している。アメリカの代表的な作家を列挙していくと、ブラウン-アーヴィング-ホーソーン-メルヴィル-トウェイン-ジェイムズ-ヘミングウェイ-フォークナー-ベロー-カポーティ-バース-ピンチョンという系譜が出来上がるが、ヘミングウェイとベローを除けばそれはそのまま“ゴシシズムの系譜”になるというのである。続けて八木は次のように言う。
「すくなくともアメリカでは、現実に起こりそうなことがそれらしく描かれるリアリズム小説が主流ではなく、どこか異常な、非日常的な、グロテスクな、極端なことが平気で展開するロマンスが主流である」
そしてそれはイギリスにおける事情とは大いに違っている。イギリスの作家の系譜を辿ってみると、リチャードソン-オースティン-エリオット-ジェイムズ-コンラッド-ロレンス、あるいはフィールディング-デフォー-スィフト-ディケンズ-ブロンテ姉妹-ハーディ-ウルフとなるが、このうち「ゴシシズムの気配がある」のは、ジェイムズとコンラッド、ブロンテ姉妹だけということになる。しかもジェイムズはアメリカ人(ヘンリー・ジェイムズはアメリカで生まれそこで活躍した後、イギリスに移住しているからどちらにも名前が出てくる)、コンラッドはポーランド人なのである。
ゴシック小説の元祖はイギリスであるのに、イギリスの主要作家の系譜の中にゴシック小説が位置づけられることはないと八木は言う。だからホーソーンの『緋文字』やメルヴィルの『白鯨』などがアメリカ文学史で占める高い地位を、ウォルポールの『オトラント城奇譚』やマチューリンの『放浪者メルモス』が占めることはとても考えられないことなのだ。
八木はこれと同じ現象を宗教上の歴史に見ている。英国国教の反主流派であったピューリタンが、新大陸に渡って絶対的な主流派となり、その精神が今日まで続いているというアメリカの歴史である。八木はさらに次のように書いているが、その指摘はおそらく正しいし、アメリカにおけるゴシックの展開にとって最も重要な部分を押さえていると私は考える。
「もしこの文学のジャンル(ゴシック小説のこと)が恐怖と夢想を共通項とし、エトスにおいてプロテスタント、パトスにおいてロマンチックなジャンルであるとするなら、またもし宗教の次元で失ったものを空想の次元で奪回しようという想像力の営みであるとするなら、この「新しい小説」はもともとアメリカという国の精神風土とうまが合っていたのだ。アメリカとは、元来が宗教上のロマンチシズムであるプロテスタンチズムの、そのまた純粋派のピューリタニズムの、神の王国をこの世に来たらそうという極端な夢が新大陸の荒野に生み落とした国ではなかったか」