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玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(2)

2015年06月05日 | ゴシック論
 とにかく途方もない小説である。『ねじの回転』も途方もない小説であるが、『聖なる泉』はそれ以上に途方もない小説である。なにせこの小説にあって作者は、ひたすら語り手の「私」が見た人間関係に関わる理論と、それについての議論に終始させているからである。
 発端はロンドンのパディントン駅。週末にニューマーチ邸に招かれた「私」は駅で、ギルバート・ロングとグレイス・ブリセンデン夫人と出会う。「私」は最初、彼らが彼らであると認識することができない。二人とも大きな変貌をとげていたからである。
 かつて愚鈍だったロングはいつの間にか聡明な紳士に変わっているし、さほど美しくもなかったブリセンデン夫人は、いつの間にか美しく魅力的になり、40歳以上なのに25歳くらいにしか見えないほど若々しい女性に姿を変えている。「私」は言う。
「私の道連れのそれぞれに、何か前例のないことが起きたのだ――その事実は二人に歴然と顕われていた」
 こうして最初に謎が仕掛けられるのは、ゴシック小説の常套的な手法であるが、その謎が小説の進行とともに解かれていくというのでもない。すべては「私」の解釈の中で進行し、その解釈が他の登場人物によって相対化され、覆されそうになりながらも、徐々に「私」の中に理論が構築されていく。そのことだけがこの小説の中で起きるすべてである。
“聖なる泉”とは何か? 「私」はブリセンデン夫人の変貌ぶりについて、ロングにこう話す。
「ブリス夫人が新鮮な血液なり時間と青春の特別増配なりをどこかで手に入れなければならなかったとすれば、一番便利なのは他ならぬブリスその人から手に入れることでしょう。(中略)彼の方では、それらを彼女に供給するために、聖なる泉の蛇口を開かなければならなかったのです」
 つまり、ブリス夫人は夫のブリセンデンの“聖なる泉”の蛇口から、新鮮な血液なり時間と青春の増配なりを受け取ったというのである。まるで吸血鬼のテーマである。明らかにヘンリー・ジェイムズは、『ねじの回転』で幽霊の存在をほのめかしているように、ここでブリス夫人の中に吸血鬼の存在をほのめかしているのである。
 ではロングの場合はどうか? 「私」によればロングが知性を手に入れたとすれば、彼の恋人からであり、その結果その恋人は知性を失って痴呆化しているはずだというのが「私」の理論となる。問題はそれが誰かということになるが、ニューマーチ邸で我々はその“誰か”に出会うことになるだろう。
 そしてここにも吸血鬼のテーマが姿を見せている。“聖なる泉”から汲み取るものが“若さと時間”であるか、それとも“知性”であるかの違いがあるだけに過ぎない。ロングは彼の恋人から知性を吸い取って変貌した吸血鬼に違いないのである。