玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

谷川渥監修『廃墟大全』(5)

2015年06月03日 | ゴシック論
 ピラネージに深入りしすぎて『廃墟大全』から離れてしまったが、「牢獄」シリーズを含めて、やはり廃墟といえばピラネージというイメージは圧倒的に強い。
『廃墟大全』では、中国文学者の中野美代子が「ピラネージなき中国」という文章を書いていて、中国(日本も含めた東アジア圏)とヨーロッパにおける廃墟の文化史的な違いについて分析している。簡単に言えば木造文化と石造文化の違いである。
 中野は「中国には表象としての廃墟はない」と書く。中国にも日干し煉瓦で造られた建築物などの廃墟はあるが、それらは砂漠地帯の奥深くにあって人の目に付かないか、あるいは砂漠の厳しい環境のために、すでに廃墟としての面影すら止めていない。
 中野はまた「崩落ないし崩壊の悲劇にいろどられた廃墟美は、あきらかに石の建造物の特権なのである」とも書いている。中国では主要な都市は常に戦火にさらされ、宮殿は廃墟と化すが、木造であるが故にすぐにまた新たに建造される。木造文化は一時的に廃屋は残しても、廃墟は残さないのである。ピラネージについて中野は次のように言っている。
「二千年もの間見られつづけたからこそ、フォロ・ロマーノ(古代ローマ遺跡)はピラネージを生んだ。記憶をゆりうごかすものがなければ、廃墟は存在しない」
 つまり、中国にはピラネージは生まれ得ない。そして日本にあってもピラネージと廃墟の美学は存在し得ない。日本の幽霊譚に登場するのはせいぜいが廃屋(上田秋成の「浅茅が宿」をみよ)に過ぎないのである。
 最後に中野は「宮殿楼閣ばかりではない、破屋にも、その上を通りすぎる時間は、崩壊というカタストロフィをもたらさない。ピラネージのみならず、モンス・デジデリオも、アジアには生まれなかったのである。それだけ、アジアの時間は、終末を信じていないのであろう」と書く。
 しかし今日の日本では『廃墟大全』のような本も出版されているし、ピラネージやデジデリオの画集さえ出版されている。それが山尾悠子のような作家に大きな影響を与えていることを思うと、何かが変わりつつあるのだと思わざるを得ない。
 それは当然のように、近代日本が疑似石造建築としてのコンクリート建築を量産し、さらにはそれらがいくつかの都市において、まさに終末論的な破壊を被ったという歴史的事実と無縁ではあるまい。
 東日本大震災とそれによる福島原発事故は、美とは縁もゆかりもない醜怪な廃墟を生み出し、それは今も現存しているが、それはカタストロフィをもたらさなかったかも知れないかわりに、終末への確信だけは決定的に我々に与えたことは確実である。
(この項おわり)