さて、私は『聖なる泉』の心理小説としての極端な性格ということを言ったが、それは「私」が謎の探求の主体として設定されていることに起因している。この小説が『鳩の翼』のように三人称で書かれていたならば、このような行き過ぎは避けられただろう。しかし、『聖なる泉』は三人称で書かれることなどできなかった。「私」はヘンリー・ジェイムズ自身の方法をこそ実践しているのだからである(次回にこのことに触れる)。
「私」の探求は徹底的で、有無を言わせぬものがある。会話は『鳩の翼』より更に少なくて、分析的記述が小説全体のほとんどを占めている。「私」と他の登場人物との間の“腹のさぐり合い”もしつこいほどに描かれていく。「私」の基本的なルールは次のようなものである。
「ゲームの公正なルールに従って考慮に入れることを許される種類の徴候に基づいてこそ――心理的徴候だけに基づいてこそ――この種の詮索は高度の知的活動と言えるのです。卑しむべきは探偵と鍵穴です」
これが「私」が自分自身に課しているゲームのルールである。物的証拠など必要ではない。だから探偵は卑しむべきものとされる。“鍵穴”とは覗き見の手段であるが、この覗き見や立ち聞きといったことが、どれほど多くのゴシック小説に、ストーリーを円滑に進めるための手段として活用されてきたことだろう。
「私」はそれをも否定する。つまりはヘンリー・ジェイムズ自身がゴシック小説における覗き見や立ち聞きといった姑息な(小説の展開にとって姑息な)手段を否定しているのである。
心理の至上権を打ち立てているのは「私」ではなく、本来的にはヘンリー・ジェイムズ自身である。心理的徴候によってすべては解明されると「私」が考えているということは、ジェイムズ自身が心理的徴候を的確に描いていけば、小説は成立すると考えていたことと同じことでなければならない。
そうでなければ『聖なる泉』のような小説は書かれ得ないし、後期の心理小説三部作と言われる『使者たち』『鳩の翼』『黄金の盃』という傑作群もまた書かれ得なかったであろう。
「私」の探求にはほとんど会話さえ必要ではない。その人物がそこにいるだけで、そこに表情を示す顔や眼があるだけで、「私」はすべてを読み取ることができる。まるでテレパシーのようだが、実際にそのようにして「私」は“すべてを知る”ことができる、というか“すべてを知った”と思い込むことができる。
最後の第13章と14章は「私」とブリセンデン夫人との対決の場面に充てられていて圧巻である。二人の腹のさぐり合いから、ブリセンデン夫人の攻勢へと進み、事実を突きつけ「私」の理論を否定し、「あなたは本当に気違いだわ」と夫人に言わせる場面はスリルに満ちている。しかしそれでも、「私」は敗北を認めず、最後にこう言って真実を謎の中に放置する。
「ただし、実を言えば私が彼女の三倍も理路整然としていなかったというわけではない。じつに致命的に私に欠けていたのは、彼女のあの確信に満ちた口調であった」
ヘンリー・ジェイムズは、“小説に真実などというものは必要ではない”とさえ言っているかのようだ。
「私」の探求は徹底的で、有無を言わせぬものがある。会話は『鳩の翼』より更に少なくて、分析的記述が小説全体のほとんどを占めている。「私」と他の登場人物との間の“腹のさぐり合い”もしつこいほどに描かれていく。「私」の基本的なルールは次のようなものである。
「ゲームの公正なルールに従って考慮に入れることを許される種類の徴候に基づいてこそ――心理的徴候だけに基づいてこそ――この種の詮索は高度の知的活動と言えるのです。卑しむべきは探偵と鍵穴です」
これが「私」が自分自身に課しているゲームのルールである。物的証拠など必要ではない。だから探偵は卑しむべきものとされる。“鍵穴”とは覗き見の手段であるが、この覗き見や立ち聞きといったことが、どれほど多くのゴシック小説に、ストーリーを円滑に進めるための手段として活用されてきたことだろう。
「私」はそれをも否定する。つまりはヘンリー・ジェイムズ自身がゴシック小説における覗き見や立ち聞きといった姑息な(小説の展開にとって姑息な)手段を否定しているのである。
心理の至上権を打ち立てているのは「私」ではなく、本来的にはヘンリー・ジェイムズ自身である。心理的徴候によってすべては解明されると「私」が考えているということは、ジェイムズ自身が心理的徴候を的確に描いていけば、小説は成立すると考えていたことと同じことでなければならない。
そうでなければ『聖なる泉』のような小説は書かれ得ないし、後期の心理小説三部作と言われる『使者たち』『鳩の翼』『黄金の盃』という傑作群もまた書かれ得なかったであろう。
「私」の探求にはほとんど会話さえ必要ではない。その人物がそこにいるだけで、そこに表情を示す顔や眼があるだけで、「私」はすべてを読み取ることができる。まるでテレパシーのようだが、実際にそのようにして「私」は“すべてを知る”ことができる、というか“すべてを知った”と思い込むことができる。
最後の第13章と14章は「私」とブリセンデン夫人との対決の場面に充てられていて圧巻である。二人の腹のさぐり合いから、ブリセンデン夫人の攻勢へと進み、事実を突きつけ「私」の理論を否定し、「あなたは本当に気違いだわ」と夫人に言わせる場面はスリルに満ちている。しかしそれでも、「私」は敗北を認めず、最後にこう言って真実を謎の中に放置する。
「ただし、実を言えば私が彼女の三倍も理路整然としていなかったというわけではない。じつに致命的に私に欠けていたのは、彼女のあの確信に満ちた口調であった」
ヘンリー・ジェイムズは、“小説に真実などというものは必要ではない”とさえ言っているかのようだ。