玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(5)

2015年06月07日 | ゴシック論
 さて、私は『聖なる泉』の心理小説としての極端な性格ということを言ったが、それは「私」が謎の探求の主体として設定されていることに起因している。この小説が『鳩の翼』のように三人称で書かれていたならば、このような行き過ぎは避けられただろう。しかし、『聖なる泉』は三人称で書かれることなどできなかった。「私」はヘンリー・ジェイムズ自身の方法をこそ実践しているのだからである(次回にこのことに触れる)。
「私」の探求は徹底的で、有無を言わせぬものがある。会話は『鳩の翼』より更に少なくて、分析的記述が小説全体のほとんどを占めている。「私」と他の登場人物との間の“腹のさぐり合い”もしつこいほどに描かれていく。「私」の基本的なルールは次のようなものである。
「ゲームの公正なルールに従って考慮に入れることを許される種類の徴候に基づいてこそ――心理的徴候だけに基づいてこそ――この種の詮索は高度の知的活動と言えるのです。卑しむべきは探偵と鍵穴です」
 これが「私」が自分自身に課しているゲームのルールである。物的証拠など必要ではない。だから探偵は卑しむべきものとされる。“鍵穴”とは覗き見の手段であるが、この覗き見や立ち聞きといったことが、どれほど多くのゴシック小説に、ストーリーを円滑に進めるための手段として活用されてきたことだろう。
「私」はそれをも否定する。つまりはヘンリー・ジェイムズ自身がゴシック小説における覗き見や立ち聞きといった姑息な(小説の展開にとって姑息な)手段を否定しているのである。
 心理の至上権を打ち立てているのは「私」ではなく、本来的にはヘンリー・ジェイムズ自身である。心理的徴候によってすべては解明されると「私」が考えているということは、ジェイムズ自身が心理的徴候を的確に描いていけば、小説は成立すると考えていたことと同じことでなければならない。
 そうでなければ『聖なる泉』のような小説は書かれ得ないし、後期の心理小説三部作と言われる『使者たち』『鳩の翼』『黄金の盃』という傑作群もまた書かれ得なかったであろう。
「私」の探求にはほとんど会話さえ必要ではない。その人物がそこにいるだけで、そこに表情を示す顔や眼があるだけで、「私」はすべてを読み取ることができる。まるでテレパシーのようだが、実際にそのようにして「私」は“すべてを知る”ことができる、というか“すべてを知った”と思い込むことができる。
 最後の第13章と14章は「私」とブリセンデン夫人との対決の場面に充てられていて圧巻である。二人の腹のさぐり合いから、ブリセンデン夫人の攻勢へと進み、事実を突きつけ「私」の理論を否定し、「あなたは本当に気違いだわ」と夫人に言わせる場面はスリルに満ちている。しかしそれでも、「私」は敗北を認めず、最後にこう言って真実を謎の中に放置する。
「ただし、実を言えば私が彼女の三倍も理路整然としていなかったというわけではない。じつに致命的に私に欠けていたのは、彼女のあの確信に満ちた口調であった」
ヘンリー・ジェイムズは、“小説に真実などというものは必要ではない”とさえ言っているかのようだ。


ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(4)

2015年06月07日 | ゴシック論
『聖なる泉』は同じ頃に書かれただけあって、『ねじの回転』との共通性を多分にもっている。『ねじの回転』の舞台は古めかしいブライのお屋敷であり、『聖なる泉』の方はニューマーチ邸。どちらも閉鎖的な空間であって、登場人物も限定されている。そこには共通して外部というものがない。
『聖なる泉』は一人称で書かれていて、「私」という語り手に名前は与えられていない。『ねじの回転』も、導入部があって手記の存在が紹介されるという、よりゴシック的な構成になってはいるが、やはり一人称で書かれていて、主人公である女家庭教師に名前は与えられていない。ヘンリー・ジェイムズのいわゆる「視点」ということが関係してくるのだが、今はそのことに触れている余裕はない。
『ねじの回転』は実際に幽霊が顕れたのか、あるいはすべては女家庭教師の妄想に過ぎないのか判然としないというか、どちらともとれる書き方がされている。『聖なる泉』でも同様に、「私」の理論が正しくて吸血鬼現象が起きているのか、あるいはすべては「私」の妄想に過ぎないのか判然としないように書かれている。
『聖なる泉』では『ねじの回転』におけるよりも、ゴシック的なシチュエーションは弱い。ニューマーチ邸はブライの屋敷のように中世風のお屋敷ではないようだし、そもそも邸の描写などほとんどなされていない。
 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』の場合のように、ゴシック的空間と言うことにほとんど注意をはらっていない。『聖なる泉』でゴシック的なのは、空間よりも人間と人間との関係のあり方、あるいは実際の関係ではなく「私」が妄想によってそうだと思い込んでいる人間と人間との関係の方である。
 閉鎖的な空間にあって、複雑な迷路のように入り組んだ男女関係をはじめとする人間関係、あるいはやはり実際の関係ではなく、「私」が妄想によってそのように思い込んでいる複雑な人間関係。ニューマーチ邸に滞在する限り、その息苦しさから逃れることはできない。だからこそ、たった一日半の滞在に過ぎないのに、「私」はそこから逃げだそうとする。小説半ばで「私」は次のように語る。
「妄想が私に取りついたのは私がこの邸を訪れる途中の出来事だったのだから、もと来た道を引き返せばその妄想を振り払うことができるだろう。ただそのためには、きれいさっぱりと別れを告げなければならない。断乎帰りこぬことを誓って全ての思い出の種となるものから逃げ去らなければならない」
 真にゴシック的なのはつまり妄想の迷路なのであって、他のものではない。自らの妄想に気づいているだけに「私」は『ねじの回転』の女主人公よりも意識的であり、その意味で成長を遂げているとも言える。
 ともかく、ヘンリー・ジェイムズほどにゴシック小説に対して意識的に、つまりは韜晦的に書いた作家はそれまで他にはいない。ジェイムズが幽霊や吸血鬼を信じていたとも思えない(兄のウィリアム・ジェイムズは心霊現象に大きな興味をもっていたようだが)。
『ねじの回転』が幽霊なき時代のゴシック小説であるとすれば、『聖なる泉』は吸血鬼なき時代のゴシック小説なのである。