船村演歌の信奉者として、氏の略歴・エピソードを眺めてみた。
栃木県生まれの船村徹氏(1932年(昭和7)年-2017年(平成29)年)は、日本歌謡(演歌)界の巨星で、5000曲以上を作曲、作曲家協会会長、音楽著作権会長等を歴任し、2016(平成28)年には歌謡曲作曲家として初めて(作曲家としては山田耕筰氏に次いで2人目)文化勲章を受章されている。
船村氏は、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)在学中から2歳年上で作詞家の高野公男氏と組んで音楽活動を始めたが、船村氏が「流し」等で糊口を凌ぐ日々であったものの、高野氏が「お前は栃木弁で曲を作れ、俺は茨木弁で詩を書く」とお互いに意気軒昂であったとされる。
1955(昭和30)年12月、春日八郎に売り込んだ「別れの一本杉」が大ヒットして春日八郎をスターに押し上げるとともに、船村・高野は一躍ゴールデンコンビとなり、矢継ぎ早に「あの娘が泣いてる波止場(三橋美智也)」「三味線マドロス(美空ひばり)」「早く帰ってコ(青木光一)」とヒットを飛ばしたが、高野公男が肺結核に罹って茨木で療養することを余儀なくされ、別れの一本杉ヒットの翌年(昭和31年)には高野が26歳の若さで亡くなってしまう。自身の闘病の無念さと船村との紐帯を詩にした高野の「男の友情(曲:船村徹)」は後日発売され、多くの歌手に歌われるることになる。
船村にとっても高野公男との邂逅・別離は特別であったようで、テレビでも高野公男の話題になるとカメラの前でも涙することが度々であった。
自分が「男の友情」を知ったのは、1973(昭和48)年に小笠原の父島勤務時に、現地採用の20代技官の持つ北島三郎のカセットテープであった。当時、小笠原の平均的な20代といえば、日本語の合間に英語が混じる「父島語」を話し、極めてアメリカナイズされていたが、日本演歌の神髄ともいえる「男の友情」はアメリカンの彼にとっても心に響くものであったのだろう。
船村氏にとっての歌手は、美空ひばり、北島三郎、ちあきなおみであったらしく、元々「ちあきなおみ」に提供した「矢切の渡し」が競作となって、結果的には細川たかしの歌ったものが大ヒットしたものの、「美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用で細部まできっちりと聴かせる。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌」と分析・評価している。
また、歌謡界から完全引退した「ちあきなおみ」に対して、復帰をラブコールする傍ら、何時ちあきが復帰してもいいように楽曲を準備されていたとされている。