魚雷艇(PT:torpedo boat)は、当初は水雷艇(蒸気船)と呼ばれ、内燃機関装備の滑走型ボートに変化して以降魚雷艇と呼ばれることになるが、魚雷艇と水雷艇は別の艦種とするのが一般的で、日本海軍では、本土近海を離れた外洋での艦隊決戦に戦術思想が変化したために、水雷艇は次第に大型化して駆逐艦に変貌し、航続距離に難がある魚雷艇が整備されることは無かった。
水雷艇は、1869(明治2)年に自走魚雷が実用化したために出現し、1878(明治11)年には帝政ロシア海軍の水雷艇がオスマン帝国海軍の砲艦を撃沈している。
日本海軍でも1880(明治13)年にイギリスに4隻発注したのを皮切りに水雷艇の整備が図られ、日清戦争では1894(明治27)年の黄海海戦で戦意喪失・遁走して山東半島威海衛湾に籠った北洋艦隊に対して、翌1895年2月に水雷艇20隻以上による数次の夜襲を敢行し、「定遠」「来遠」「威遠」を撃沈している。
1900(明治33)年には水雷艇の多くが駆逐艦に分類され、1904(明治37)年に就役した9隻を最後に水雷艇の建造を終了した。
日露戦争中の1905(明治38)年5月27日の日本海海戦においては、27日~28日の夜戦で40隻にも及ぶ水雷艇が駆逐艦と共同して、総計54本の魚雷を発射して戦艦「ナヴァリン」撃沈、戦艦「シソイ・ヴェリキー」、装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」、一等巡洋艦「ウラジミール・モノマフ」を大破させたとされている。
その後1923(大正12)年までに水雷艇は全て除籍、艦種別そのものも廃止され、日本海軍から水雷艇は姿を消し、魚雷艇も整備されることも無かった。
ジョン・F・ケネディ中尉(後大統領)が指揮するPT109がソロモン諸島近海を航行中、駆逐艦天霧に衝突(乗り切られる)されて、 部下2名を失いながらも生き残った部下たちとソロモン諸島の島に泳ぎ着いて救助されたことは、映画にもなって有名である。アメリカ海軍は、PTが沿岸警備だけでなく外海における艦艇攻撃にも幅広い任務を遂行できると考えて、急遽、魚雷4本を搭載した全長24mの魚雷艇94隻を建造したとされているが、凌波性・居住性・航続距離に劣る魚雷艇を、どのような方法で本国を遠く離れたソロモン諸島にまで配備・展開し得たのかには勉強が及んでいない。
次回は、海上自衛隊の魚雷艇の予定です。
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