もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

W杯の対独戦勝利を観て

2022年11月24日 | カープ・スポーツ

 森保ジャパンが初戦の対独戦に勝利した。

 強豪国ドイツ戦の事前予想では、好意的な評論家ですら希望的ニュアンスを滲ませての「引き分け以上」が大勢を占めたいたように思うので、勝利は日独双方にとって「晴天の霹靂」とも思える。
 以下は、W杯と五輪でしかサッカーに興味を持てない門外漢の独白と理解して頂きたい。
 これまでは、森保監督のチーム編成や試合運びには何かしらのイチャモンを付して報じられるのが常で、対独戦の後半に自分ですら知っているビッグネームを相次いで交代させた時も同様であったように思える。しかしながら、交代起用した堂安・浅野選手が貴重なゴールを挙げたことを思えば、森保監督のチーム編成(選手選考)と試合勘が示されたと称えるべきであろう。
 森保ジャパンの今後の快進撃に期待するところであるが、今朝のテレビで知った「浅野選手の心構えには「そうなんだ!」と感じ入った。
 過去のインタビューで浅野選手は、モチベーションの原点を「ナルシスト力」で、「これだけやったのだから」・「俺が一番上手い」と云い聞かせて練習や試合に臨んでいると答えている。
 日本人最多となるシーズン56本塁打を放ったもののシーズン最多記録には手が届かなかったNPBヤクルトの村上選手も、「50本打った時点で目標を56本に設定してしまった」と後悔の念を口にしている。
 トップクラスの才能に恵まれた人にとっては、目標をより高く設定することがモチベーションを高く維持できるとともに結果を残せる秘訣なのだろう。逆に考えれば、才能あふれる人であっても到達可能なレベルに目標を設定すると、その時点で既に栄誉を手放しているのかもしれない。
 内面・内心を口にするのはリスクを伴うことで、結果が出ない場合には「ビッグマウス」とレッテルされてしまうが、一流から超一流にジャンプ・アップするためには、自分に拍車をかけるためには必要な行為であるように思う。

 一流の・類稀な才能を持つ人は、自己暗示的ビッグ・マウスで超一流に変身できる可能性を秘めているが、二流以下の才能にあってはビッグ・マウスだけでは高みに上れないことも身に染みているし通念ではないだろうか。
 若し、自分の画力がグループ内はおろか泰西の画家にも匹敵するとでも口にすれば、たちまちのうちに「鼻つまみ者」になり「爪はじき」されることは火を見るよりも明らかである。
 自分のような凡人は、一流者のビッグ・マウスには応援しながらも、甲羅に似合った分相応を知らなければならないと今更ながらに思う。


「勤労感謝の日」考

2022年11月23日 | 歴史

 遠隔地に住む孫娘(小1)から、勤労感謝の日のプレゼントが届いた。

 完全リタイヤから15年近くも経過しているために戸惑いはあるものの、誇らしげな漢字の署名に目を細めている。
 思えば、給料が口座振込となって以来、家族から勤労と給与について感謝された覚えが殆どない。加えて、この時期は海上自衛隊演習の後始末に忙殺されることもあって、休日出勤となることも多かった。
 勤労感謝の日であるが、帝国憲法下にあっては「新嘗祭」で、天皇陛下が臣民とともに皇祖に対して五穀の収穫を報告して感謝を奉げる日であったと聞いている。改めて、新嘗祭が勤労感謝の日になった経緯を調べると、憲法改正に伴って旧憲法下に制定された新嘗祭を始めとする皇室由来の祝日がGHQによって廃止され、昭和23年成立の「国民の祝日に関する法律(祝日法)」で新嘗祭に該当する11月23日を勤労感謝の日と制定したと理解している。
 祝日法によると、勤労感謝の日の意義は「勤労を尊び、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」とされているので、例え専業主婦であっても亭主の勤労にのみ感謝する日ではない。その意味から云えば、亭主が感謝されないことは当然で愚妻は法律の趣旨・精神に極めて忠実であったことになる。
 感謝とは、対象があって初めて成立する語句と思うが、祝日法が「国民互いに感謝しあう」と規定したのは、11月23日を残すためにキリスト教社会の「感謝祭」を思わせることでGHQを納得させる苦肉の策であったのだろうが、字面から祝日の意義を読み取れないネーミングは、戦後の混乱期とは言え独立を機に改正しなければならなかったもののひとつであるように思う。
 新嘗祭の他にも帝国憲法化の皇統・皇室に由来する祝日が名を変えて受け継がれている例も多い。紀元節は建国記念の日に、春・秋皇霊祭は春・分の日に、明治節が文化の日に、と挙げられる。明治節を残すために新憲法公布日を11月3日にしたという穿った見方は別にしても、現行の祝日は「それなりに名は体を表している」が、新嘗祭⇒勤労感謝の日だけは、木に竹を継いだ感が否めない。「お互いに感謝しあう」と聞けば、浪曲師の東家浦太郎(?)が得意とした「壺坂霊験記」の冒頭♬妻は夫をいたわりつつ 夫は妻に慕いつつ♬的に聞こえて、鼻白む思いがする。

 Wikipediaによると、新嘗祭の歴史は古く、「日本書記」には既に飛鳥時代には行ったと記述されている。
 壺坂霊験記冒頭は現在にもフィットし、斯くなければならない心構えではあろうが、11月23日を残すならば「食の日」とか「五穀感謝の日」として、既に廃れたとはいえ5月1日のメーデーを勤労感謝の日に指定するのはどうだろうか。


共同幻想と平和憲法

2022年11月22日 | 憲法

 TVで「人間社会は共同幻想で成り立っている主張」を聴いた。

 ホモサピエンスがネアンデルタールを駆逐し得たのは、ネアンデルタールが共同幻想と云う資質を持たなかったことが大きいともされ、以後のホモサピエンスの繁栄は偏に共同幻想の資質に依っているとされていた。また、共同幻想の顕著な例として神話が語られていたが、多くの国や民族が神話を持っていることを思えばなるほどと思った。
 以下は自分の感想であるが、神話は集落規模の拡大によって住民の価値観が多様化して統御が困難になった際に、団結の基本理念に、若しくは指導者の正当性を示すために作られたのではないだろうか。当初は言葉で伝承されていたが、代を追うごとに脚色が加えられて複数のリーダーに都合のいいように変化・分化したために、文字を持った最強リーダーが集団のアイデンティティを保ち得る部分を集約するとともに、自分の正当性を強調できるように編纂したのではないだろうか。
 このことは、記紀の成立に顕著であるように思える。古事記は各勢力に枝分かれした数種の伝承・神話を併記する形であるのに対して、日本書紀ではストーリーの統一が見られれるのはこのことを示しているように思える。このように考えれば、建国記念の日に蒸し返される「神武天皇の存在・即位は史実に根拠を持たない」と疑問視することは、意味を持たないように思う。720(養老4)年に完成したとされる日本書紀が、当時の倭人アイデンティティの最大公約数であり、更には1300年余も日本人の精神的支柱であり続けたことを考えれば、神話(日本書紀)は歴史ではなく民族同一性の象徴とするだけで充分であるように思う。
 旧約聖書は、100歳のアブラハムと90歳のサラとの間に生まれたイサクは180歳の長命であったするが、キリスト者は「生物学的・生理学的にあり得ない」とは考えないようである。

 現代の共同幻想の最たるものは通貨制度であると思う。かって、硬貨は金銀の含有量で・紙幣は金の保有量に裏付けられていたが、現在は発行国の信用(共同幻想)で価値が保たれている。
 さらに、日本の特異な共同幻想として「平和憲法」を挙げても良いのではないだろうか。武力と戦意を放棄した理念を他国も尊重して武力侵攻など起きないとする意見を共有する人々は、一部限定の共同幻想を観ているに過ぎないと考えても良いのではないだろうか。この共同幻想は、長期的にはホモサピエンスの深化に貢献するものだろうが、中短期的には大和民族の厄災を防ぎ得ないと断言できると考えている。


大臣3人の更迭と国家安全保障会議

2022年11月21日 | 防衛

 内閣改造後1ヶ月で3人の大臣が更迭された。

 更迭された原因が、統一教会代弁?、軽口、政治資金虚偽記載と、開いた口が塞がらない以上に小物感に満ちている。
 高等小学校卒の今太閤ともてはやされた「田中角栄」氏は、悪し様に書けば「悪銭に塗れて」宰相の座を降りた。角栄氏は、数多の2世議員・東大卒官僚議員を押し退けて総裁総理に上り詰める過程で、親しい友人に「俺は常に刑務所の塀の上を歩いている」と漏らしていたとされるので、徒手空拳の身で国盗りを目指すために「塀の上を歩く」ことを必要な手段と覚悟していたように思うし、そこには日本列島を改造して、自分の生まれ育った越後の寒村でも豊かな暮らしを実現するという「理想」「政治的信念」があったように思う。
 今回更迭された3人の大臣を眺めると、いずれもが東大卒であるので善悪の判断は衆に抜きんでて政治倫理にも通暁していたと思うが、「無人販売所の商品万引」にも等しい行いを観ると、総裁・総理になるためのステップとも、理想を実現するための必要悪との覚悟など微塵も感じられない。
 山際議員・寺田議員の所業は置くとして、法相を更迭された葉梨議員の軽口は看過できないように思える。
 葉梨議員は、東大法学部卒業後17年間の警察庁勤務を経て政治活動に入り、以後法務副大臣や衆院法務委員長を歴任した、いわば司法・法曹のプロであると思える。法務大臣は利権も存在しない旨味の無い名誉職とも観られるとともに任命にもその匙加減が働くのであろうか、これまでも同様の失言・軽口で複数回の更迭劇があったと記憶しているが、一方で鳩山邦夫氏は膨大な裁判資料を読み込んで押印したとされ、千葉景子氏は自身のサインした死刑執行に立ち会ってさえいることを思えば、葉梨議員には国民の命を絶つことを法的に認められているのは法務大臣だけという認識も無かった、若しくは長年の警察庁勤務でその感覚がマヒしていたのかもしれない。

 ハリウッド映画では、大統領が重大な決定をする場合には同席している司法長官に法的判断を問う場面が描かれるが、日本の国家安全保障会議では法務大臣は委員に含まれていない。
 何故に、このような人選になっているかを考えれば、アメリカでは最高指導者と雖も違法行為を犯すという性悪説に立ったブレーキ役としての司法長官の判断を加えるのに対して、日本ではブレーキ役として財務・経産相しか参加しないのは、総理は違法を犯さないという性善説によるところが大きいのではと観ている。
 法曹の信頼回復と国策遂行の適法性を確保する意味からも、法務大臣の職責を強化して国家安全保障会議の主要閣僚に加えると共に、その任に堪えうる人間を任命して欲しいと願うところである。


残骨灰を知る

2022年11月20日 | 社会・政治問題

 新聞記事で「残骨灰」という言葉と存在を知った。

 残骨灰とは、火葬場で拾骨できずに残った粉骨などを指すそうである。それらは火葬場責任者所定で適当に処分されるのだろうと自分は思っていたが、実際は保管されており、既に保管能力の限界に近付きつつある自治体も少なくないらしい。
 その打開策として、残骨灰を粉砕して貴金属を回収した後に圧縮して再保管する方法があり、20政令都市の例では既に15市が処分(貴金属回収or売却)を行っており、1市が検討中、4市は再処理・売却はしないという状況とされる。
 紹介された京都市の例では、39㌧の残骨灰から金(7.2㎏)、銀(21㎏)、プラチナ(0.2㎏)、パラジュウム(6.3㎏)を回収して売却益は1億2千万円を超え、さらに残骨灰の圧縮によって2.3トンになったとされている。
 記事では真宗本願寺派の関係者が「宗教界も参加して議論すべき」と述べているが、「死=無」と考える自分は、残骨灰の再利用は一石二鳥の妙手であるので遺骨をすら糊口の足しにするかの葬式仏門の戯言に耳を傾ける必要は無い様に思う。

 「虎は死して名を残し、人は死して名を遺す」とされるが、後段は「人は死して名を遺せるとは限らないが、再利用可能な残骨灰は残せる」と変えなければならないようである。
 しかしながら、残骨灰からの貴金属は、ペースメーカー・人工関節・金銀歯冠から抽出できるものとされているので、現在のところそれらを装着していない自分の残骨灰は建材の一部にしかならないようである。
 映像等で観る海上散骨は粉末状の遺骨を散布しているが、事前に遺骨を粉末にするのだろうかと疑問に思っていたし、海洋汚染防止法に抵触しないのだろうかとも思っていた。
 「残骨灰から貴金属を回収後に圧縮保管(売却も可)」はそれらの杞憂を一挙に払拭するもので、老齢者と死亡者の漸増(激増?)に直面している現状を考えると全国的に推進して欲しい策と思う。