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生きること:過去と未来とエスペラントと

ワルシャワ:エスペラントゆかりの地へ Ⅱ

2009-08-13 11:57:56 | エスペラント
 ユダヤ人たちが絶滅収容所トレブリンカに送り出された鉄道の駅はザメンホフ通りからそれほど遠くはありませんでした。昔は青空の下に貨車が2両置かれていましたが今は記念堂というような感じの建物にありました。そのすぐ横にかってザメンホフが眼科医として働いたヂッカ街があり、その場所から彼の二人の娘ソフィアとリディアもトレブリンカに送られたのです。

 そのことについて『ZAMENHOF』著者Marjorie Boulton はその著の中で次のように述べています。

Sed senkulpa, aminda Sofia, kiu kredis, ke tiu vagnaro portos la judojn nur al la orientaj provincoj, diris, ke kiel kuracistino, ŝi povos helpi aliajn; kaj senproteste ŝi iris al Treblinka. Ekzistas historio, pri kies vereco estas nefacile certigi, ke iu pla esperantisto aǔ eble sveda esperantisto proponis specialan al Lidja, kaj ke ŝi sinofere rifuzis pro alttruisma motive. Povas esti; sed la terura certa fakto estas, ke post du monatoj Lidja, amata de la tutmonda esperantistaro, sekvis sian fratinon en senrevena vojaĝo al Treblinka.( p. 249)


 要訳 その列車がユダヤ人を東の地方に運ぶだけだと信じていたソフィアは医者として他の人たちを助けることができると言って抵抗もせずにトレブリンカに行きました。その話が真実かどうか確かめるのは難しいのが、次のような話があります。あるポーランドかスウェーデンのエスぺランティストがリディアに特別な援助を申し出ましたが、彼女は愛他的理由でそれを拒否しました、それはあり得ることですが、リディアも2ヶ月後に姉に従い帰りのない旅トレブリンカに向かいました。

 私たちはザメンホフ通りから歩きましたがトラムを利用する場合は157番です。


写真の後ろに見える白いアパートはヂッカ街に建っています。


記念堂の壁に書かれた言葉の一部です。


 ワルシャワ蜂起記念碑の横にあったゲットーの地図。数十人の観光客がガイドの説明を受けていました。
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