ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

ソフトバンクモバイル、障害者の携帯選びをサポートする「むくの木携帯販売店」を開設

2009年02月18日 11時02分51秒 | 障害者の自立
 少し古い情報にはなりますが、下記のような情報を見つけたので掲載します。

 ソフトバンクモバイルは10月26日、東京都葛飾区に、障害者の携帯選びをサポートする専門の販売店「むくの木携帯販売店」を開設すると発表した。

 NPO法人自立支援センター「むく」と連携して、テレコムエクスプレスが運営するむくの木携帯販売店は、障害者自立支援法多機能型施設「むくの木」の1階に開設される。障害者の支援を目的とした専門のソフトバンク取次店で、障害者への携帯電話の相談や販売を行う。こうした取り組みは、ソフトバンクモバイルとしては初めてのもの。

 ソフトバンクモバイルでは、以前から「障害者が時間をかけてゆっくり説明を聞ける機会がほしい」との要望を多数受けており、今回の販売店設置に至った。端末購入時などの相談や販売は、障害者のスタッフが中心に担当し、相談しやすい環境を作る。

 なおむくの木携帯販売店では、端末の在庫は持たず、予約販売を行って後日店舗で引き渡すか、転送不要郵便で郵送する。


障害者の目線で服作り

2009年02月18日 10時54分16秒 | 障害者の自立
 障害や加齢で体の自由が利かなくなった人たちが、着やすさとデザイン性を兼ね備えた服作りに取り組み始めている。

 メーカー任せにせず、ブランドを設立したり、商品開発に積極的にかかわったり。不自由な点を当事者の視点で改良した服は、一般の人にとっても快適なものが多く、障害の有無を超えて愛用者を広げている。(上原三和)

 靴下やジーンズ、そしてウエディングドレス……。ファッションブランド「ピロレーシング」の通販サイト(http://www.piroracing.com/jeans/)では、しゃれたデザインの服を扱っている。

 一見、一般の若者向けの商品のようだが、車イス利用者が使いやすいように工夫してある。例えば、着古した風合いをわざと強調したジーンズ。車イスに長時間座っても、お尻周辺の皮膚に負担がかからないよう肌に当たる部分を1枚の生地で作り、凸凹するポケットや縫い目もなくした。伸縮性のある生地は特注品。

 「自分自身が本当に欲しい、格好のいいジーンズにこだわりました」とブランド代表の長屋宏和さん(29)。

 長屋さんは2002年、自動車レースの事故で半身不随となり、車イス生活を送っている。体が不自由になってから、大好きだった細身の服を着ると窮屈さを感じるように。障害者向けの服も探してみたが、着たい服が見当たらない。

 「だったら、自分で作ろう」と、服飾関係の仕事をしている母親の協力を得て、05年にブランドを設立した。

 実体験が随所に生かされた服は「しゃれている上、動きやすい」と健常者のファンも多い。1点数万円するジーンズも06年7月の発売以来、1000点以上売れ、体を動かす作業の多い人などから注文もあるという。「自分の体に合った服があるだけで、人は幸せを感じる。不便さを体験した人にしかできないデザインもある」と長屋さんは話す。

 服のリフォームに障害者が積極的にかかわるケースもある。千葉県中心に展開する洋服リフォームチェーン「リフォームツクダ」は今年1月、「片手ではけるGパン」のリフォームを始めた。「片手がまひしたお客さんに、着脱が楽なズボンが欲しいと言われたのがきっかけ」と、同社常務の佃由紀子さんは話す。

 高齢化社会が進む中、特別な声ではないと考え、この客に開発に参加してもらった。適当なファスナーの位置や長さ、座ったまま足を入れても、ズボンを上げることができるか――。限られた動作の中でも負担をかけない形を求め、試作品を何度も着てもらった。

 その結果、ウエストから腰の脇へ向かって切れ込みを入れてファスナーを付け、ファスナーの端に持ち手を付けて握りやすくしたリフォーム法を開発=写真=。「体が不自由な人の実体験から、私たちには思いつかないアイデアが出てくる」と佃さんは話す。

 体の不自由な人のための服作りは、服飾メーカーなどを中心に10年ほど前から始まっているが、定着しなかった。「こうすれば機能的、こういう服が障害者向きだと、開発がメーカー主導になり、利用者の視点が欠けていた」と、NPO法人「ユニバーサルファッション協会」理事長の織田晃さんは指摘する。

 「若い時のように健康な体で一生を終える人はいない。体が不自由な人たちが心地よさを求めて発案するファッションは、これからの服作りのヒントになる」と話している。


障害者本人の意思を尊重するセンターの役割を見直す・・・3

2009年02月18日 00時27分16秒 | 障害者の自立
■ 個別的なコーディネートからの出発
 CIL富山の機関誌では「病院とAさんの間でコーディネートをして」と中見出しがついている。具体的な事項は、あくまでAさんと病院との間でのやり取りした課題である。相談助言は、いつも具体的な内容から始まる。また、どこまで進んでも、一般化はできない。

 だれにでも当てはまるやり取りは、あまりにも選択の幅が広くなりすぎるか、抽象的になりすぎる傾向がある。その大きなかたまりの中から、自分で決めなさいといわれても、では、どうしたらよいのか決めかねて、とまどう場合が多いはずだ。いや多くの相談の場合には、一般的な知識や漠然とした選択肢を持っているが、本当にそれでよいのか、決めかねている人が、相談機関を頼りにする。

 その意味で、ここに具体的に掲げてある事項は、貴重だ。なんとなく解決しなくてはならない課題群があるというだけでは、具体的な活動には結びつかない。私の表現にすると「橋渡し」となる。橋は両側の事情を結ぶ。

 本人の状態や意思決定力も、個々人で違う。病院側の対応もそれぞれ異なるであろう。病院と一口で言っても、どんな人が病院のスタッフであるかによって、対応も違う場合もあるだろう。でも、こうした事例をきちんと整理していただけると、他の場合の参考に十分になると思う。機関誌では、センターとしてのつぎの見返りの項目「連携とネットワークについて」に移っている。以下は、その原文である。

■ たくさんの方が関わるからこそ情報の共有化と連携が大切
 Aさんを支援するにあたり、たくさんの関係機関の方々に関わっていただくことができました。となると、それゆえの課題があります。それは、『誰と誰がどのような情報を共有し、どことどこがネットワークを作っていく必要があるのか』についてです。

 まず、私たち自身の役割として考えたことは、『関係者をどうつないでいくのか。今、何が必要なのか。そのためにはどの関係者に集まってもらうと良いのか。さらには、どのような情報が必要なのか。』ということでした。

 決して、私たちが方針を出すのではなく、Aさんと話し合いながらケアプランを作ります。そのプランをケア会議で提案し、それぞれの立場から意見が出されます。介助の時の注意や現段階でのAさんの状況の情報交換をし、Aさん自身にどうしたいのかを表明してもらい、関係者が全員で共有するのです。

 こうした情報や意見の共有が、Aさんの退院後に意味を成すことになったのです。それは、Aさんが退院して2日後のことでした。Aさんから電話があり、“ベッドから落ちたから今すぐ来てほしい!”というものでした。

■ 緊急に支援を必要とした場合のスタッフの対応
私は、身ひとつで事務所を飛び出しました。私の脳裏では、最悪のことまで想定していました。偶然センターに来ていた人に車の運転を頼み、またもうひとりの方も“私も一緒に行きます!”ということで急ぎました。

 まず、私が最初に考えたことは「私よりも1分でも早くAさん宅にいけそうな人がいるかどうか」でした。その時に、ヘルパー事業所さんだっ!と思ったのです。すぐに電話をかけました。

 “Aさんから、自宅のベッドから落ちたと連絡を受けたんです。私も向かっていますが、そちらからも誰か行けないでしょうか?” “誰かいけるように何とかしてみます!!”

 ほかに何かできることはないのか??と考えました。病院へ行かないといけない場合、主治医にすぐ受け入れてもらえるかだ!!と思った私は、主治医に連絡をとりました。

  “先生!!Aさんからベッドから落ちたと連絡を受けたんですが。” ”Aさん宅に着いたらもう一度連絡してくれ!!”

 Aさん宅に着きました。・・・あっ!ヘルパー事業所さんの車がある!!・・・でも、まだ安心できない。急いで家の中へと入りました。Aさんはベッドの上で寝ていました。

 そして、すぐに主治医に電話しました。“今の状態はどうだ?”・・・私はかなり気が動転していました。そんな私を察したのか、主治医は症状の確認を質問形式で聞いてきました。意識はあるか?痛いと言っている所は?手足は動くか?・・・・・そして、大丈夫だ!という言葉が返ってきました。やった-----------!!

 この頃には、ヘルパー事業所の他のヘルパーさんも続々いらっしゃっていました。結局この日は、いつもよりヘルパーさんが入る時間を早めていただくことができ、何かあったらすぐに連絡しましょう、ということで事務所に戻りました。

■ 必要に応じたネットワークづくり―― 緊急入院、手術などAさんとの1年間――
 緊急入院(X病院)から始まり、1回目の手術転院(Y病院)、転院(X病院)、一時退院、2回目の手術(Z病院【県外】)、転院(X病院)、そして退院というめまぐるしい1年間でした。これに伴い、下記のようにいろいろな課題がありました。

 当然、私たちのセンターだけでは担い切れませんでした。そのため、必要に応じて様々なネットワークを作っていき、または作ってもらいながら乗り切ってきました。

(1)入院に伴う洗濯

 個人の方と支援センター2カ所、作業所の個人で行ってきました。(県外の病院から、同意人になって頂いた人にも加わってもらえました。)県外の病院は、Aさんのサッカー仲間も加わって頂けることになり、また友人の知り合いの方も加わって頂けました。人のつながりがすごくうれしく頼もしく感じました。センターの役割としては、洗濯当番のローテーションを組むことでした。

(2)入院中に必要なものの買い物

 看護士さんから「ラブレターだよ」と心電図の紙が渡され、裏には「おむつ・・・」と必要なものが書いてありました。病院で必要な買い物は、当センターが主に行い、必要に応じて洗濯当番に行った人にして頂きました。

(3)アパートの管理及び様々な支払い

 県外の病院に行く前までは、当センターがAさんの了解を得ながら、その都度支払い等を代行してきました。県外の病院へ行って以降、危険な手術だったということもあってある程度の額お金を預からせて頂いて、Aさんの了解を得ながら支払いを行いました。

(4)退院後の住まいをどうするのか

 緊急入院前は、民間のアパートに入居されていたのですが、そのアパートの階段で一度転倒され、病院に運ばれたことがあったことと、車椅子の生活になっているので他に移った方がよいのではということで、市営住宅の障害者用に応募することにしました。抽選会があり、Aさんに外出許可を取ってもらい、見事入居が決まりました。

 Aさん自身、最初はあまり乗り気ではなかったようです。それは、施設から出て初めて生活したアパートだったからだと思います。やっとの思いで見つけたアパートだったことや、思い出の強いアパートだったこと。また、当センターから近かったことなどがあるのかなと思います。

 一時退院の時には、新しい住まいである市営住宅で生活をして、近くの銭湯にも行っていました。彼の思いは、どうだったのか彼自身が語ってくれると思いますが・・・。

(5)入院中の他病院の診療に誰がやるのか

 入院していた病院には、当時MRIがなかったので何度か他の病院に行きました。また、県外の病院で手術する予定だったので、そのための診察にも行きました。当然、このための送迎や診察中の介助さらにはMRIを撮るための介助は他の送迎サービス業者や支援費事業所ではやって頂けないので当センターでいろんな人たちにお願いをしたりスタッフが行ったりしてきました。

 年金生活者にとって、これら一連の経費は大きな出費になることは言うまでもない。今後、様々な法的縛りがかけられてくると支援もしづらくなるだろう。特に、来年(2006年)4月からの道路運送法の改正は、こうした支援の妨げにならないだろうか。

■ 地域で暮らしたいという思いを実現するために
 様々な人たち、組織(病院、支援費事業所、支援事業)等が必要に応じてネットワークを作りながら、情報を交わし1人のAさんの入院・手術・一時退院等を乗り切り、そして退院後の地域生活を支えるための体制づくりまできました。これは、Aさんの「地域で住んで、もう一度働きたい」という思いが強くあったことと、それを支える側の熱い思いがあったからだと思います。

 関係者1人1人が、支えよう、関わろうという思いがないと出来ないことです。『人が人を変えていくこと』を身を持って知ることの出来る取り組みでした。決して、制度や法律では行うことのできないネットワークだったといえます。以上が、センターとしての見返りの3つ目「連携とネットワーク」の原文である。以下、読んだ感想を少し付け加える。

■ 本人の生活を支えるための工夫
 Aさんが、ベッドから落ちた際のやり取りは、緊迫感にあふれた文章である。しかも、必要な連絡が冷静に記録されている。筆者にとっては、今だから、ふり返る余裕もできたのであろうが、アタフタしたなかでも、必要不可欠なことが適切に対応できている。

 病院入院中の課題が具体的に5つの項目にわたって示されているのも、今後の参考になるであろう。障害のある、なしにかかわらず、地域で暮らす中では、病気や怪我などに罹る場合もある。その意味で、医療の必要性も大きい。

 しかも、医療を必要とするときは、多くの場合緊急を要する。しかも、多くは突発的に発生し、前もって準備しておくこともできない。本人は痛みで身体的にも打撃であるし、精神的にも落ち込む。普段の生活とは様子が違う。そのときに、適切な支援が必要になる。

 この記事を読んでいて、AさんにかかわったCIL富山の1年間の活動ぶりが浮かび上がる。多分、事前に準備していなかったことばかりであったであろう。でも、結果としてみると、富山のセンターにとっては大きな財産になった。いや、こうして記録していただいたお陰で、全国の相談機関にとっても有益な材料が手に入った。あとは、それぞれの地域で、各種の組織で、具体性におうじた変化を付けて欲しい。また、もっと内容が別の事例があれば、記録してほしい。

 原文の最後のところで記述されているように、関係者1人1人が関わろうという熱意があれば、なんとかなるのだと、感じた。障害者の自立を支援する力は、これほどに強く、厚くなってきたのだと、実感した。


不況障害者雇用を直撃

2009年02月18日 00時19分25秒 | 障害者の自立
千代三洋が一時休業
 鳥取市の三洋電機コンシューマエレクトロニクス(CE)の子会社で、障害者雇用を目的に設立された電子部品製造「千代三洋工業」(同市晩稲)が、受注減による減産で一時休業に踏み切ったことがわかった。三洋電機(大阪府守口市)によると、2、3月に計8~10日の休業を予定し、すでに12、13日に実施。休業日の給与を5%カットするという。急激な景気減速が、障害者雇用の現場も直撃している。

 千代三洋工業は、三洋電機フォトニクス事業部(鳥取市)から発光ダイオード(LED)などの製造を請け負っている。同社によると、2月の発注量は昨年12月に比べて30%減少した。

 三洋電機の広報担当者は、一時休業について「雇用を守るためのやむを得ない措置。4月以降も、業績の低迷が続けば実施する可能性がある」としている。

 千代三洋工業は、旧鳥取三洋電機(現・三洋電機CE)が51%、県が40%、鳥取市が9%を出資する第3セクターとして、1992年に設立された。従業員102人中、パートを含む27人が重度の人を含む障害者。障害者雇用促進法に基づく県内唯一の特例子会社として、27人は三洋電機CEの雇用障害者数に算入されている。

 千代三洋工業の西尾孝博社長が1月22日、同社取締役を務める藤井喜臣副知事を訪ねて一時休業を報告。県側は休業中の給与カット率を1割以上にしないよう求めたという。


障害者支え40年…「愛のチャリティバザー」今年も

2009年02月18日 00時17分58秒 | 障害者の自立
 西宮市の障害者三団体による「にしのみや愛のチャリティーバザー」が三月六、七日、JR西宮駅南のフレンテホールで開かれる。今年で四十回目を迎え、メンバーらは「収益のおかげで重度障害者の作業所などを増やすことができた」と振り返る。今年もバザーで販売する品物の提供を呼びかけている。(木村信行)

 西宮市肢体不自由児者父母の会、西宮市手をつなぐ育成会、ひょうご子どもと家庭福祉財団。活動資金に困っていた三団体が一九六九年、品物を持ち寄って開いたのが始まりで、阪神・淡路大震災があった九五年を除いて毎年開催。その後、自治会や婦人会などに支援の輪が広がり、規模も拡大。収益金を積み立て、重度障害者が暮らす「あおば生活ホーム」などの建設にこぎつけた。

 昨年は食料品や生活雑貨を中心に約一万点が寄せられ、会場には二日間で千二百人が来場。会場から人があふれ、急きょ入れ替え制にするほどの盛況で、約二百万円の収益があった。

 市肢体不自由児者父母の会の吉田知英会長は「四十年も続けられたのは市民の協力のおかげ。これからもバザーを通じ、障害者を支える社会を育てたい」と話す。

 バザーは両日とも午前十時から午後三時まで。提供は新品同様のものに限り、食料品、洗剤などの日用品、陶器、ブランド品など。中古家電は不可。申し出があれば実行委が受け取りに行く。受け付けは三月三日まで。ひょうご子どもと家庭福祉財団TEL0798・23・0458