ゴエモンのつぶやき

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湯河原の女子高生が津波研究 避難ルート確認、海抜表示板色分け提案/神奈川

2012年04月16日 02時11分28秒 | 障害者の自立
湯河原町在住の高校1年生が津波研究に意欲をのぞかせている。東日本大震災の教訓を生かそうと昨夏、通っていた中学校の自由研究で町内の危険箇所をくまなく歩き、避難に関するリポートをまとめた。「東日本大震災のような悲劇を繰り返したくない」という願いは今も変わらず、進学後も継続して取り組もうと思っている。

 リポートをまとめたのは、県立西湘高1年田口桃さん(15)。

 湯河原海岸を遊び場にして育ち、海沿いの湯河原中学校に通っていた田口さんにとって、「3・11」の映像は衝撃的だった。濁流にのみ込まれていく街並み。「湯河原を津波が襲ったらどうなるんだろう」。不安がしばらく頭から離れなかった。

 そんな思いから、昨年の夏休みの自由研究で、町内約100カ所に設置された「海抜表示板」の調査に取り組んだ。海抜15メートル以下の地域を重点的に歩いて写真に収め、自作の拡大地図に落とし込む作業を進めた。

 「湯河原は坂道が多く、海から遠ざかっても海抜が急に低くなる場所がある。高台に向かうにも、傾斜がきつい道があった」。歩いて初めて気付いたことを書き出すうちに、「みんなが避難経路を考える参考にしたい」という思いが強まった。

 湯河原中(海抜7メートル)にいるときに地震が起きたと想定し、自宅や湯河原駅(同30・1メートル)まで速足で歩いて時間や歩数を計測してみた。自宅に戻るには川に架かる橋を渡らなければならないが、そのときに津波が川をさかのぼってきたら…。頭の中でイメージし、避難時に注意すべき点も考えた。

 湯河原海岸のサーフィン客はどこに避難すればいいかを調べるため、海岸近くから付近の吉浜小(海抜42・3メートル)まで走ってみたりもした。結果は3分46秒。「大人の足なら津波が来る前に逃げられるはず」と実感した。

 自分なりの視点で課題も探った。例えば海抜表示板の色分け。同町の表示板は10メートル以下は黄色、10~15メートル以下は青、15メートル超は緑と分けられているが、電柱に取り付ける場合、管理会社の基準で青に統一しなければならない。「いざというときに誤解を生む可能性があるから、電柱でも色分けしたほうがいい」。また、11カ所ある津波避難ビルを調べ、「最上階や屋上の高さの表示があるとより安心できる」と書き加えた。

 インターネットを活用して、海抜表示板の設置が進んでいない沿岸自治体があることも調べる一方、避難所の耐震化などを含めた防災対策の難しさも知った。

 仕上がったリポートはA4判20枚近くになり、教諭の勧めで模造紙に書き写した。今年3月に町内で開かれた防災イベントなどで紹介され、反響を呼んだ。

 「特にお年寄りや障害者に役立ててほしい。日ごろから津波や防災について意識していることが大事だと思う」。田口さんはそう訴える。

カナロコ(神奈川新聞) -2012年4月15日

歯科衛生士の復職支援

2012年04月16日 02時03分16秒 | 障害者の自立
 十勝歯科医師会(小林靖会長、会員192人)は今年度から、慢性的に不足している歯科衛生士の確保に向け、資格を持ちながら出産や育児を理由に就業していない「潜在歯科衛生士」の発掘に乗り出す。年内にもセミナーを開催し、少なくとも10人程度の復職を支援する考え。各歯科医院での人材確保のほか、今年度開始の在宅医療の充実につなげる。

 具体的には、(1)歯科医院での一般的な診療(2)在宅診療で口への取り込み、飲み込みの障害への対応−を大きなテーマに据えて座学と実習を行い、最新の歯科医療の現状や技術に触れてもらう。復職希望者には既存の職業紹介事業(無料)を通して、求人のある医院にあっせんする。

 十勝管内には歯科衛生士を養成する機関がなく、希望者の多くは道央の専門学校などに進学している。

 こうした状況を背景に、特にここ数年歯科衛生士が不足しており、同会の鎌田靖理事は「必要な人数に対して3、4割ほど少ない感覚」という。

 在宅歯科医療では歯科衛生士がコーディネーター役を担って患者を訪問するが、現在は1人のみ。今後、管内19市町村をカバーする人材も必要になってくる。

 従来は、毎年6月に管内の高校で歯科衛生士の職業紹介などに取り組んできたが、有資格経験者の発掘は即戦力を確保できることから新たに事業化した。

 鎌田理事は「歯科衛生士の役割は大きく、1人でも多く復職してもらえれば地域の歯科医療の向上につながる」と話している。


歯科医師(左)の診療を補助する歯科衛生士

歯科衛生士
 国家資格による専門職。(1)虫歯や歯周病の予防(2)歯科医師の診療補助(一部では治療も行う)(3)歯磨き指導や口腔(こうくう)ケアなどの歯科保健指導−を担う。管内の有資格者は約160人。十勝歯科医師会では、このうち未就業者が約60人いると見込んでいる。


十勝毎日新聞社ニュース_2012年04月15日 14時33分

「障害」として語る前に

2012年04月16日 01時55分32秒 | 障害者の自立
 最近やたらと「〇〇障害」とか「〇〇症候群」という目新しい障害名を耳にする。学校の周辺でもっともよく聞かれるのが学習障害だが、これはいくらか歴史がある。といっても日本で騒がれはじめてまだ十数年というところだろうか。それに最近のはやりが注意欠陥多動障害。いずれも曖昧なものだが、これをLDだのADHDだの略語でいうと、何かしら専門的な気分になるらしく、やたらと頻発する人がいる。
 犯罪の世界では、一見、理解を超えた種類の事件があると、人格障害とか行為障害とかいう用語が出てくる。これも最近の傾向である。アスペルガー症候群などのように対人関係の難しさをもった人々が、周囲の無理解のなかで犯罪行為におよんで、まるでこの症候群自体が犯罪の原因であるかのように報道されたこともある。
 あるいはパニック障害とか、最近は社会不安障害などというものも、ことばとして、はやりはじめているらしい。私自身が大学の講義で「パニック障害のため」というような欠課届けを学生からもらって、あらためてこの種の「障害」の広がりようを意識するようになった。自分の意志ではコントロールできない強迫的な観念や不安・恐怖が「障害」の名で語られ、時に薬物医療の対象となっているのである。
 こうした新来の「障害」名を聞くたびに、いつも私はなにかいかがわしさを感じてしまう。どうしてだろうか。
 「障害」ということをめぐっては、それこそ何十年来の議論がある。一つには障害を克服し、あるいは軽減し、その人本来の発達可能性を最大限実現しようとの考えがある。これが発達権とか発達保障ということばで語られたのは、1960年代からのことである。障害をもつ者を差別し、我が身の周辺にあったときはそれをひたすら隠すというたぐいの旧来の在り方に対して、当時、これは画期的な考えだったかもしれない。しかし障害の克服・軽減、あるいは発達を眼目として、ひたすら専門的な手立てを求める発想にはやはり違和感がつきまとう。
 もう一方に障害を個性としてみる見方がある。障害を克服すべきもの、軽減すべきものとしてみる見方のなかには、当の障害を抱えた人そのものを否定するニュアンスがつきまとう。実際、克服・軽減にも限度がある。にもかかわらずこれにこだわり続けるかぎり、障害は当人にとっていつまでも異物でありつづける。それは苦しい。ならば、むしろ障害をありのままに受け入れて、個性として引き受けようというのがこれである。主として当事者たちによって打ち上げられたこの考えは、いささか格好がよすぎるところもあるが、気分としてよくわかる。
 人間には自由にならないことがある。それは知的障害とか身体障害とか視聴覚障害とか、あるいは精神障害とか、いわゆる福祉法にのっている「障害」が典型だが、もちろんそれにとどまらない。とりわけ人間のこころは不自由である。新来の「障害」はいずれも、自分でコントロールできない部分を問題にしている。しかしはたしてそれらをあらたに「障害」と言わなければならないものだろうか。「障害」と言うことでかえってその部分を異物として、自分の外に押し出してしまうことになりはしないだろうか。また安易な薬物治療は、まさに異物でもって異物を処理する、しかも中途半端なかたちで処理することにしかならないのではないだろうか。
 人間のできなさ、あるいは不自由は異物ではなく、むしろその本体である。それをありのままに引き受けたところで、それぞれの人の生きるかたちがつくられてくる。そうだとすれば、人間の不自由を私たちがどのように捉えていくのかということこそが本来の問題であって、これを「障害」に帰するというのは、もっとも安易で、貧しい思想なのではないのだろうか。

(はまだ・すみお)
1947年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。発達心理学を批判的に捉え、「私」というものがどのように成り立っていくかを主要テーマにしている。また、冤罪事件や自白の問題についての研究も多い。現在、奈良女子大学文学部教授。
日本法と心理学会理事長。著書に『発達心理学再考のための序説』(ミネルヴァ書房)、『「私」とは何か』(講談社)、『ありのままを生きる』(岩波書店)、『自白の心理学』(岩波新書)、『<うそ>を見抜く心理学』(NHKブックス)など多数。

※2002年5月15日 不登校新聞掲載

Fonte - (12-04-16)

難病に負けず 写真再び

2012年04月16日 01時45分04秒 | 障害者の自立
重症筋無力症 元フリーカメラマン

 難病の重症筋無力症と闘う元フリーカメラマン中田輝義さん(59)(熊野町貴船)=写真=が、自宅から撮った様々な雲の写真展「熊野の郷・雲」を22日~5月5日、広島市中区のまちづくり市民交流プラザで開く。発症で一度は写真を諦めたが、今を懸命に生きようと16年を経て一念発起。新たな挑戦が「病気や困難と闘う人たちを勇気づけられれば」と願っている。(児玉圭太)

 中田さんは三原市出身で、高校を卒業してカメラマンになり、炭鉱労働者の生活を取材するため北海道に移住。労働者や身体障害者の姿を撮り続けた。しかし、1995年に筋力が低下する重症筋無力症を発症し、広島に帰郷。愛用のライカや一眼レフカメラは重くて持てなくなり、自宅にこもる日が続いた。

 転機は2007年。熊野町から電動車いすを贈られ、一人で外出できるようになった。取材で知り合い、交流を続けていた札幌市の男性を見舞うため、片道1830キロを75日間かけて電動車いすで旅し、手記を本にまとめて出版。読んだ知人らから「もう一度、(中田さんの)写真が見たい」と言われるようになった。

 旅の成功で、自信もついた。「取材で会った障害のある人たちに、一緒に頑張ろうと言ってきた自分が諦めたら、これまでの写真がすべてうそになる」。もう一度、撮ろうと決めた。

 被写体に選んだのは、県営住宅10階の自宅ベランダから見える雲だった。小型で軽いデジタルカメラを買い、昨年2月頃から壁にもたれたり、肘をついたりしながら撮影した。意思を持つ生き物のように広がる雲や、その隙間から差す柔らかな日差し。刻々と表情を変える雲に話しかけるようにシャッターを切った。

 「今できることを懸命にやり、その証しを残したい」。撮影した1000枚を超すカットのうち、写真展ではB3サイズのモノクロ作品約30点を展示する。入場無料。


中田さんが自宅から撮影した雲の写真

(2012年4月15日 読売新聞)

長野マラソン 2年分の思いを込めて

2012年04月16日 01時37分19秒 | 障害者の自立
 号砲の日を迎えた。長野オリンピック記念長野マラソンが長野市で行われる。春の市街地を多くのランナーが駆け抜ける。

 昨年は東日本大震災や県北部地震を受け、取りやめた。出場者にも応援する側にも、2年分の思いがこもる大会だ。車いすマラソンも同時に開かれる。それぞれに楽しみ、盛り上げたい。

 長野マラソンのコースは、長野運動公園をスタートし、五輪施設を巡って長野オリンピックスタジアムに至る42・195キロだ。定員は2千人増やした。視覚障害者の部を合わせ、これまでで最も多い約1万人が出場する。東北地方を含め各地から集まった。

 国内外から招待選手が参加するほか、今回も五輪金メダリストの高橋尚子さんがスペシャルゲストを務める。市民ランナーにとっては、一流の選手たちと同じコースを走れる貴重な機会になる。

 ランナーの大会に懸ける思いはさまざまだ。今回は被災地の復興を願う気持ちがとりわけ強い。

 大会の組織委員会事務局が初めて参加者から募った「希望メッセージ」にも表れている。走ることで被災した地元を盛り上げたい―といった内容が寄せられた。参加費に義援金を上乗せしたチャリティーエントリーにも多くの人が応じている。応援や観戦を通じ、広く共有できるといい。

 完走や記録更新など、一人一人が見据える目標もある。達成できるよう頑張ってもらいたい。

 信州の春も合わせて楽しんでもらえたら何よりだ。桜の開花は遅れているものの、晴天なら残雪の北アルプスなどを望める。

 全国的にも人気が高く、多くの市民ランナーを引き付ける大会になっている。理由の一つは、沿道から途切れることなく送られる声援だ。苦しくなってきた選手たちにとって励みになる。都合が付くなら、ぜひ足を運んで走りを後押ししてほしい。

 大会の運営は多くのスタッフ、ボランティアが支える。2年ぶりの開催で、参加者が大幅に増えてもいる。成功に向け、万全を期すようお願いする。交通規制には市民の理解と協力が必要だ。混乱することのないよう、あらためて情報を確かめ合いたい。

 万が一の備えも欠かせない。救護態勢はさらに充実させた。自動体外式除細動器(AED)の数を増やし、救護所の医師らも手厚く配する。出番がなくて済むなら、それに越したことはない。出場する人たちには、無理のない範囲でベストを尽くしてほしい。

信濃毎日新聞 - 04月15日(日)