社会に刷り込まれている障害者への差別意識
今年もまた夏休みの一大チャリティイベント、24時間テレビが放映されました。障害や難病を抱える人がさまざまな課題にチャレンジすることで注目される番組ですが、その裏番組として、2012年に障害者のための情報バラエティ番組として始まったNHK「バリバラ」が生放送をぶつけました。今年のタイトルは「検証!『障害者×感動』の方程式」。これを見てビックリしたのは私だけではないはずです。出演者のTシャツはあちらの番組と同じ黄色、障害者をテーマにした感動ドキュメンタリーのありさまについて24時間テレビをこれでもかとばかりにパロディ化、ツイッターなどでは大きな反響が湧き起こりました。
番組の中では、骨形成不全症を患い2014年に亡くなったオーストラリアのコメディアン兼ジャーナリスト、ステラ・ヤングさんのTEDでのスピーチ「障害者は『感動ポルノ』として健常者に消費される」も紹介されました。ステラさんは「私はあなた方を感動させるためにここにいるのではない。見知らぬ人から“あなたは勇敢だ”とか“元気をもらった”と言われるけれど、これらは人をモノ扱いしている行為。健常者が良い気分になれるよう、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしている」と述べ、「乗り越えるべき障害は、体や病気にではなく、社会にこそ存在する」と断言しました。
障害者を軽視する思想はどこから生まれた
7月26日未明に起きた相模原の障害者施設殺傷事件は、日本中を震撼させました。植松聖容疑者は重度知的障害者だけの殺害を目的に「津久井やまゆり園」に押し入り19人を殺害、26人に重軽傷を負わせました。同容疑者の「障害者は周りの人を不幸にする。障害者は生きている意味がない」との主張は、実は今の社会に生きる私たちの価値観やありかたと無縁ではありません。
「ひとのいのちは地球より重い」などとうたう一方で、経済的な利益を何よりも優先し、生産効率や労働能力で人の価値を判断、序列化する社会。成績や偏差値の高低が生徒の優劣を決める学校教育。障害者でなくても生きづらさを感じるこうした社会風潮は私たちが作り出したものであり、このありかたが障害者の生存を軽視・否定する思想を生み出す土台になっていないのか。私たちは今一度考える必要があります。そのことを考えるヒントとなる事件をご紹介しましょう。
2004年、米国のシアトルこども病院にて重症重複障害(脳性麻痺)のある6歳の少女アシュリーに対して、3種の医療介入が両親の希望のもとに行われました。エストロゲンの大量投与療法による最終身長抑制、乳房の生育を制限する初期の乳房芽の摘出、生理と生理痛を取り除くための子宮摘出手術です(開腹の際に盲腸も摘出されている)。
これを報じる記事が2007年1月3日、ロサンゼルス・タイムズに掲載され大ニュースとなりました。「障害女児の背を伸ばさない決断を両親が釈明」。障害者の人権擁護団体やフェミニズムの活動家らはこのことに対して猛抗議を行いました。「尊厳を踏みにじる許しがたい暴挙」「人を変えるな、制度を変えよ」との非難声明を相次いで発表したのです。
一方、アシュリーに行われた一連の医療介入(処置)をセットにして“アシュリー療法”と名付けた両親は、そのブログで自分たちの決断の動機や意図を説明し、アシュリーのみならず広く世の重症児に適用することを提案しました。
人としての尊厳より介護環境を優先させた両親
アシュリー療法の目的について、父親は「重い障害のある娘のQOL(生活の質)を維持向上させる手段として思いつき、医師に要望した」と説明、「生理痛がなくて発達しきった大きな乳房からくる不快がなく、常に横になっているのによりふさわしく、移動もさせてもらいやすい、小さくて軽い体の方が、アシュリーは肉体的にはるかに快適でしょう。アシュリーのニーズはすべて赤ちゃんと同じニーズです。完全に成熟した女性の体よりも9歳半の体のほうがふさわしいし、より尊厳があるのです」と、あくまでも本人のためであることを強調しました。
さらに父親は「自分では何にもできない、寝たきりで頭の中は生後3カ月の赤ちゃんなのに、一人前の女性としてさらに成長していくなんて、私たちにとってはグロテスクだとしか思えなかったのです」と述べたのです。
アシュリー療法を施すことは簡単な決断だったと語る父親にとって、自分たちの想像し得る枠に小さいままのアシュリーを落とし込むことは何の迷いもありませんでした。アシュリーはどうせ重症児だから。しかし重症児だから何も分からないとするのはあまりに身勝手な考えでした。アシュリーの父親に押し切られた印象の強いこの処置は、アシュリーが現状に苦痛を感じての治療ではなく、人としての尊厳より介護環境(両親)を優先させた、治療とは異なるものであったと言えます。
アシュリーのような重症児がそのままではグロテスクで生きる価値がないとするならば、健常者しか生きられない社会になってしまうでしょう。これを社会としてみたときに、障害者の生きる権利を奪うことにつながりかねません。周囲によって都合良く改造された9歳半の身体のアシュリーは現在18歳。今も両親のもとで静かに暮らしているようです。
重度障害者は「不幸な人々」ではありません。アシュリーのケースで言えば、医療機器や装具の開発、技術的にも人間的にも優れた介護システムの構築、社会保障等によって、両親が「アシュリーを産んで良かった」「そのままのアシュリーが愛おしい」と思えることができる社会の中に存在していられたら、だれもアシュリーを不幸だとは思わないでしょう。
筆者が小学生の頃、クラスに重い障害のあるT君がいました。T君が1人で出来ない事はクラスみんなで手伝い、休み時間には一緒に遊ぶことを通じて、T君も自分と同じであることやT君のことを周囲が助けてあげるのは当たり前、と理屈抜きに考えることができるようになりました。しかし最近は障害者を目の当たりにする機会がずいぶん少なくなったように思います。今の若い人々にとっての障害者とは、24時間テレビで見る「感動的な人」、もしくは電車の中で時折奇声を発する、自分とは違う「怖い人」くらいの認識しか持ち合わせていないのではないでしょうか。
4月に施行された「障害者差別解消法」
2013年には新型出生前診断(NIPT)が日本で認可されました。赤ちゃんに染色体異常があるかどうかが血液を採取するだけで簡単に分かるこの診断に対し、賛否両論が湧き起こりました。個々が受けるこうした診断は、自己決定として社会的に容認され、利用が拡大している現実がある一方で、今を生きる障害者への差別につながりかねません。診断によって障害のある胎児は中絶することが当たり前の世の中になると、「障害者は社会に生きている価値がない」との論理を肯定してしまう危険性があります。
同じく2013年6月には長年の障害者運動の悲願であった「障害者差別解消法」が国会で可決成立、今年4月に施行されました。障害者差別解消法では「不当な差別扱い」と「合理的配慮をしないこと」が差別になると明記されています。多様性や異質性、個人の存在価値を認め合いながら共に生きて行く社会がようやく実現したのです。障害者に対する差別意識とは、社会によって刷り込まれた差別です。
あまりにも重い障害のある人を見た時、ひるまない人はいないでしょう。それは率直な感覚だからです。そうした自身のまなざしを自覚すること、そして取り除くべき障害は社会の中に存在することを、日々の生活の中で繰り返し考え続けることが大切なのだと思います。
まもなくリオ・パラリンピックが始まります。繰り広げられる感動シーンに私たちはどのような視線を向けるのでしょう。
2016年09月04日 東洋経済オンライン