ゴエモンのつぶやき

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メディアは障害者をどう描くべきか~感動ポルノ、バリバラの次に来るもの

2016年09月06日 03時58分34秒 | 障害者の自立

二つの対照的な身障者を取り上げた番組

8月28日、奇しくも同時間帯に身体障害者(以下「障害者」。しばしば障害者や被災者には最近、この後に「方々」という言葉が付け加えられるが、僕はこの表現がかえって「腫れ物に触る」差別的なものと判断しているので、以前に使われていたように呼び捨てで表記させていただく。その理由については後述)をメインに取り扱った二つの番組が放送された。一つはご存じの日テレ「24時間テレビ」(取り上げられるのは障害者だけではないが)、もう一つはNHKの「バリバラ」だ。二つの番組は同じテーマを取り扱いながら障害者へのアプローチが正反対に見える。

「24時間テレビ」のアプローチは、先ず障害者を弱者としてとらえ、そういった弱者が艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きているという、健常者を優位に立たせて上から目線で捉えるもの。この扱いは、近年では「感動ポルノ」という言葉で批判されているアプローチだ。「弱者である障害者」は辛い境遇にあるが、それでもがんばって美しく生きているという、お定まりの美談仕立ての物語にしてしまう。一方、「バリバラ」の方は、これに対するアンチテーゼ的な展開で、障害者にも別の側面があると言うことを示すべく、番組をバラエティ仕立てにし、障害者で笑わせたり、あるいは障害者の性を取り上げるといったアプローチを展開している。

一見すると前者が偽善に満ちた批判的な対象で、後者の方がより真実を映し出しているように思えるが、この二つはある意味、同じ次元での展開だ。マクロ的に見れば「バリバラ」も「24時間テレビ」と同様、感動ポルノの文脈にあるからだ。「24時間テレビ」との差異化のために無理矢理ネーミングを与えれば、これは「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」ということになるだろうか。

二つに共通するのは、いずれも障害者を異物=「異なもの」として扱っている点だ。これについて障害者ダンサーである森田かずよ氏は「障害者としてではなく個人として扱って欲しい」と指摘している(引用元:https://www.buzzfeed.com/satoruishido/24hourtv-or-baribara?utm_term=.pqNgdY2xaQ#.goQGME9gR1)。つまり、健常者と同じ扱いになっていない点については二つも同じということになる。では、われわれは、とりわけメディアは障害者にどのように対応すべきなのだろうか。

大人に染みこむ無意識の差別感覚

障害者に対するわれわれの現状での「自然な態度」をビビッドなかたちで見せてくれるYouTubeのビデオがある(すいません、ビデオが見つかりませんでした。海外ものです)。被験者の幼児と大人をテレビの前に座らせて、テレビに映る人物の真似をさせるもの。テレビには次々とポーズや演技をする人間が登場する。大人と子供は同じように真似を続けるのだが、ある人物が登場した瞬間、幼児と大人の対応が変わる。幼児はそれまでと同じように真似を続けるのだが、大人はやめてしまうのだ。なぜそうなったのか?映っていた人物が障害者だったからだ。

幼児と大人が異なった対応を示したのは、障害者についての経験の有無に基づいている。われわれは成長につれて様々な行動や思考を学習する。それは教え込まれることもあるが、大半は日常生活の中で自然と身に付けるものだ。こうした行動や思考が定着すると、それ以外の行動や思考を「異なもの」として扱うようになる。そして、この「異なもの」は、記号論=メディア論的には自らの日常を脅かす恐れを無意識に感じさせるものと位置づけられる。だから、これを排除したり無視しようとしたりする。少なくとも身構える。

このビデオのテレビの中で登場した障害者は、大人にとっては「異なもの」として立ち現れた。もちろん本人が差別しているつもりはない。しかし、この時、大人は過去の無意識な学習=経験に従って障害者を「メタ的な異なもの」と捉えている。つまり、健常者の真似は問題ないが、そこに障害者が登場して少々異常な動作(ただし、この場合の「異常な」とは、健常者にとっては日常的ではないように映るという意味。障害者からすればもちろん日常的な動作)をした際には(健常者の場合には、たとえ常識的ではない動きをしても、笑いながらとかして真似を続ける)、次のような心的メカニズムが作動する。「私は調査者の要請に基づいて真似をしなければならない。しかし、今ここに登場したのは障害者だ。その動きは不可解なものである。真似ろと要請されてはいるが、ここで真似たら障害者差別になる」こんな複雑な構えが一挙に現れて(しかも無意識に)真似することを躊躇させるのだ。一方、障害者に対する経験も知識もない幼児にとってはテレビ画面に登場する人物はどちらも同じ。だから躊躇無く真似を続ける。

このビデオでの大人側の対応こそが「24時間テレビ」と「バリバラ」に共通する視点なのだ。つまり障害者は「異なもの」。だから森田氏が指摘するように、どちらも障害者を個人、言い換えれば健常者と同じように扱っていない。よって、両者はマクロ的に見れば”同じ穴の狢”なのだ。言い換えれば、二つとも差別意識として批判されるべきコンテンツということになるのだが……。いや、そうではない。二つの番組は確かに障害者を差別している。しかし、これは「なにもしないよりも、まだまし」と捉えるべきと僕は考える。障害者をもっと相対化して捉え、個人として尊重するためのステップとして。

障害者のポルノグラフィ化を撤廃するステップ

「ポルノ」とは「ポルノグラフィ」の略。ざっくりと説明してしまうと「見てはいけないけれど、見たいもの」あるいは「見たいけど、見てはいけないもの」という意味。ポルノグラフィは対象を○だけど×、×だけど○という曖昧な状況に置くことで、かえって「見たいもの」「見たくないもの」に対するイメージをタブー化し、無意識下に刷り込ませ、その欲望を継続させる機能を備えている。「24時間テレビ」は障害者の日常~それは健常者と同じく清濁併せ持っている日常だ~のうち、「濁」と普通の部分を隠蔽する。「バリバラ」は「笑い」「性」といった部分に特化し、障害者の他の日常を、やはり隠蔽する。しかし、だからといって障害者はいつまで経っても個人としては扱われないということにはならないだろう。

かつて、まだ共同体が存在していた時代、現在で「障害者」というカテゴリーに属する人々も「健常者」と同じ空間で生活していた。障害者は現在に比べれば、はるかにポルノグラフィ化されてはいなかった。だが、共同体が崩壊し、障害者が日常的空間から排除されることによって障害者は現在のわれわれが認識する意味での「障害者」として位置づけられた。彼らは「異なもの」と位置づけられたのだ。

だが戦後、民主主義の一般化とともに平等であることが是であることが広く一般に浸透する。これはもちろん障害者にも該当する。だが前述したように環境からの隠蔽によって、一般人にはもはや彼らは「異なもの」として位置づけられている。つまりポルノグラフィ化されてしまったのだ。

この認識はYouTubeのビデオが示すように、われわれの身体に深く刷り込まれている。だから変更することは容易ではない。ゆっくりとステップを踏んでいくしかないのが現状だ。このように踏まえると、二つの番組は障害者を相対化していくステップと捉えられないだろうか。「24時間テレビ」での障害者の「感動ポルノ」的な扱いは、まずどんなかたちであれ障害者の存在を世間に知らしめる機能を果たした。ただし、これがある程度認知され、紹介するストーリーが陳腐化したことで、こういった「艱難辛苦を乗り越えてがんばって生きている障害者」が、障害者の一側面でしかないことが次第に認識される。そこで、これらは「感動ポルノ」と批判されるようになった。次いで、今度は別の側面が「バリバラ」的なコンテンツによって認知された。しかしこれもまた「お笑いポルノ」「障害者の性ポルノ」といった別の側面でしかないわけで、いずれ批判の対象となるだろう。しかしそれでも、これもまた障害者を相対化する新しいステップなのだ。少なくともやらないよりはマシだった。

われわれはYouTubeのビデオに登場したような無邪気な子供ではない。社会の一員として常識、より正確に表現すれば英語訳のcommon sense=共通感覚を備えてしまっている。そして、その一つが障害者に対する「異なもの」としての無意識の認識だ。これはわれわれの中に深く染みこんでいる。だから、無邪気な子供になるのは無理だ。だったらどうすればいいか。実は、その回答の一つが二つの番組、そして「24時間テレビ」から「バリバラ」への進化といえるだろう。こうやって、障害者を様々な面から紹介し相対化していく。その繰り返しの中でわれわれのcommon senseもゆっくりと変わっていく。いわば脱構築したかたちで無邪気な子供に戻ることが初めて可能になるのだ。いわば「認識におけるバリアフリー化」。

アメリカでは障害者に対する認識については面白い事実を発見することができる。現在ではバスの多くが障害者向けの低床型になっており、乗降時にはバスが右に傾き、バリアフリーの構造が出来上がっている。歩行が困難な障害者が乗降する際には、タラップがさらに付け加えられる(これも電動で出し入れ可能)。だが、面白いのはこの時の一般人の対応だ。乗降にはある程度の時間がかかるが、ほとんど意に介する様子はない。もともとマイペースという国民性も考慮しなければならないが、日常の風景として馴染んでしまっている。これでアメリカは身障者の差別がなくなっていると楽観的なことを言うつもりはないが、少なくとも、こうした「日常」として、われわれの身障者への対応を次々と馴化させていくことが障害者を「個人」として尊重することに繋がることだけば間違いないだろう。

障害者の相対化を早めるためには

ならばどうすれば早く障害者を個人として尊重すること、言い換えれば相対化することが可能になるのだろうか。

言語学者でF.ソシュール研究の大家として著名であった故丸山圭三郎は晩年、言語学的な見地から差別用語の撤廃を提唱した(一般に「差別用語」と呼ばれているものは、実際にはメディアによる放送自粛用語でしかなく、何ら罰則があるわけではない)。全ての差別用語を青天白日の下に晒してしまえばタブー=ポルノグラフィが一挙に相対化し、差別そのものが無になるというのが丸山の主張だった。少々アナーキズム的な発想で現実味は低いと言わざるを得ないけれども、丸山が指摘するのはポルノグラフィの相対化に他ならない。丸山の主張のエッセンスとはタブーをどんどん引っぱがし、既存の差別をポルノグラフィとして成立させなくしてしまえということなのだ。そういった意味では、感動ポルノもバリバラも相対化の前身には貢献したと考えてもよいだろう。ただし、僕らは次のステップを考える必要がある。しかも、もっと相対化のスピードをアップさせながら。

「方々」をやめよう

冒頭に僕は「方々」という言葉を使わないと明言した。また、ここまで身体障害者の略称を「障害者」と表記してきた。後者については「身体の不自由な人々に『害』という言葉を用いるのは何事か!「障がい者」と表記せよ」との指摘がある。こういった「配慮」を僕が否定するのは、もっぱら「障害者を相対化した視点で捉えるべき」という前提に立っているから。これらが不自然なのは言葉を入れ替えるとよくわかる。「健常者の方々」「非被災者の方々」……実に不自然な耳慣れない言葉に聞こえないだろうか。これらのような、いちいち腫れ物に触る的な「配慮」を行い続ける限り、障害者が個人として尊重されることはない。こちらの方が差別的=ポルノ的。健常者と同じ立場を成立させることを遅らせるだけだろう。

障害者が日常の風景として認識、いや「異なもの」ではなく「自然なもの」として僕ら全てが認識できる日が一日も早くやってくることを願ってやまない。

2016年09月05日   BLOGOS


個性輝け虹のダンス 18日、北九州芸術劇場 障害者ら32人 初の単独公演

2016年09月06日 03時54分41秒 | 障害者の自立

 年齢も障害の有無も関係なく、観客と一体となって踊りを楽しむダンス公演「探せ宝を、虹のふもとに!」が18日、小倉北区室町の北九州芸術劇場小劇場である。ステージに立つ32人は5歳~60代で約半数は身体や精神の障害者。公演は「障害を『個性』ととらえ、虹のようにそれぞれの色で輝いてほしい」と劇場と市身体障害者福祉協会が企画した。出演者たちは「気持ちを込めたダンスでみんなを幸せにしたい」と本番に向け、気合十分だ。

 「私はな・お・みです」「さなちゃんでーす」

 4日昼、芸術劇場での稽古。赤や黄、緑のカラフルな衣装に身を包んだメンバーが、1人ずつ手を伸ばしたり、車いすを前後に動かしたりして、自分の名前を体全体で表現していた。

 ダンス公演は3年前から毎年秋の市障害者芸術祭の中で披露してきたが、「もっと多くの人に見てほしい」と今回初めて単独での劇場公演に踏み切った。

 舞台は一人一人が個性を認め合いながら、虹を見つける旅をするストーリーで展開。歌や音楽に合わせてジャンプしたり、転がったり、12種類のダンスを繰り広げる。演出や振り付けを担当するダンサーの隅地茉歩さんは「メンバーは互いを家族のように受け入れ、信頼しながら練習に励んでいる」と目を細める。

 脳性まひで電動車いすに座って演じる58歳の女性は「宝塚歌劇団のファンでダンスが大好き。自分がステージに立てるなんて夢のよう」。左手やあごで車いすを器用に操作し、「ぶつからないようにするのが難しいが、精いっぱい頑張りたい」と意気込む。

 障害のない人にも貴重な機会だ。知的障害のある娘と参加した39歳の主婦は「最初は子どものためだったが、自由に踊るうちに私も楽しくなってきた」と照れ笑い。「ストレスや不安もダンスで発散すれば元気になる。みんなの個性を感じてほしい」と話す。

 当日は午後3時開演。一般千円、障害者や高校生以下700円。同劇場=093(562)2655。

=2016/09/05付 西日本新聞朝刊=


お年寄りにマッサージ 周南、視覚障害者12人

2016年09月06日 03時48分41秒 | 障害者の自立

 周南市視覚障害者福祉協会のマッサージ師12人が4日、同市の養護老人ホーム「きさんの里」(約100人)を訪れ、入所者たちの体をもみほぐした。

 敬老の日に合わせ、1974年から毎年行っている恒例の活動。今回は入所者約20人がマッサージを希望し、施術を受けた。

 お年寄りたちは、畳の部屋で横になり、首や肩、背中、足など全身を丹念にもんでもらった。入所者の中村汎さん(78)は「毎年楽しみにしている。全身を上手にほぐしてもらい、体が軽くなった」と喜んでいた。

 同協会の河島栄二会長(54)は「顔なじみの方たちが待ってくれているので、うれしい。皆さんとの会話も楽しく、逆に元気をもらった」と話していた。

マッサージを受ける入所者たち

2016年09月05日   読売新聞


お年寄りにマッサージ 周南、視覚障害者12人

2016年09月06日 03時48分41秒 | 障害者の自立

 周南市視覚障害者福祉協会のマッサージ師12人が4日、同市の養護老人ホーム「きさんの里」(約100人)を訪れ、入所者たちの体をもみほぐした。

 敬老の日に合わせ、1974年から毎年行っている恒例の活動。今回は入所者約20人がマッサージを希望し、施術を受けた。

 お年寄りたちは、畳の部屋で横になり、首や肩、背中、足など全身を丹念にもんでもらった。入所者の中村汎さん(78)は「毎年楽しみにしている。全身を上手にほぐしてもらい、体が軽くなった」と喜んでいた。

 同協会の河島栄二会長(54)は「顔なじみの方たちが待ってくれているので、うれしい。皆さんとの会話も楽しく、逆に元気をもらった」と話していた。

マッサージを受ける入所者たち

2016年09月05日   読売新聞


障害者スポーツを体験 パラ控え、横浜で催し

2016年09月06日 03時44分40秒 | 障害者の自立

 7日に開幕するリオデジャネイロ・パラリンピックを控え、障害者スポーツなどの魅力を伝える「ラポールの祭典2016」が4日、横浜市港北区の障害者スポーツ文化センター「横浜ラポール」で開かれた。車いすの体験や電動車いすサッカーのデモ披露などが行われた。

 オープニング式典では地元の市立小机小学校のマーチングバンドの演奏に続き、ラポールを拠点に活動する団体が踊った。そろいの衣装を着てフラダンスを披露した車いす利用者の女子生徒(9)=同市旭区=は「次第に緊張がほぐれ、うまく踊れた」と笑顔を見せた。

 メインアリーナではプロバスケットボールチーム「横浜ビー・コルセアーズ」の選手が知的障害者らにパスの投げ方などをアドバイス。電動車いすサッカーのデモンストレーションも行われた。

 陸上競技用車いすを体験した男性会社員(34)=同市保土ケ谷区=は「思った以上に腕に負荷がかかった。パラリンピックでも、日本選手に頑張ってもらいたい」と期待を寄せていた。

 1988年のソウルパラリンピックに車いすバスケットボール男子の日本代表として出場した伊藤俊之さん(58)=同市緑区=は裏方で奔走。「日本が出場する男子の車いすバスケにも注目してほしい。このようなイベントを通じて、心のバリアフリーが進むことがうれしい」と話していた。

 2016年09月05日    カナロコ by 神奈川新聞