ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

障害者の<普通>には価値がない!? 『24時間テレビ』(感動)vs『バリバラ』(お笑い)の先に……

2016年09月10日 03時22分32秒 | 障害者の自立

健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレスより】

 日本じゅうが熱くなったオリンピックが幕を閉じ、いよいよ、リオデジャネイロパラリンピックがスタートする。

 さまざまな障害を乗り越えた世界中のアスリートたちによる、感動のドラマが繰り広げられるのだ。まてよ。「障害者」「感動」、どこかで聞いたキーワードだ。

 そう、8月28日、『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ系)のクライマックスの最中、『バリバラ』(NHK Eテレ)では「検証! 『障害者×感動』の方程式」を生放映して話題を呼んだ。

それでも『24時間テレビ』に出たい!

 同番組では、メディアが障害者をどのようにして感動的に作り上げてきたのかを、過去のNHKの番組を通して検証した。

 戦後、障害者は「不幸でかわいそう」と位置づけられ、健常者より下に見られていたが、1981年の国際障害者年で大きく注目された。だが、その表現方法は、<障害があっても頑張る>という姿ばかり。

 ここで「不幸でかわいそう」×「けなげにがんばる」=「感動」という方程式ができあがったのだという。

 そして、30年以上前にできあがったイメージをいまだに引き継いでいるというわけだ。そして、28日の『バリバラ』では、それを<感動ポルノ>と切って捨てた。

 ところが、上から目線で一方的に押し付けられる「感動」に障害者自身は辟易しているとしながらも、バリバラでは、出演者一同が「24時間テレビからの出演オファーが来たら受ける」と答えるシーンもあった。

 生放映中にはひと言も発さず、謎のカッパ(?)として登場した、寝たきり芸人の「あそどっぐ」さんも、こう言う。

 「24時間テレビの関係者の皆さーん、来年こそは出演オファーお待ちしています。できれば、思わず笑っちゃうバカバカしい企画で呼んでいただければ!」

 『バリバラ』の中で体を張り、<「お笑い」と「感動」のどちらがより多く募金が集められるか>を検証した、あそどっぐさんでさえ、訴求力を無視しているわけではないのだ。

障害者の出演には<必然性>が求められる

 『24時間テレビ』の<愛は地球を救う>に対抗し、<笑いは地球を救う>と書かれた黄色いTシャツを身につけた『バリバラ』出演者たちのタブーに切り込む姿には、ネット上でも喝采が起きた。

 だが一方で、「障害者は『感動』か『笑い』のどちらかしかないのか」という声もある。普通に生きていくことさえ大変なのに、そんなに頑張れるか、というわけだ。

 メディアには、<普通に生活している障害者>を取り上げても、高視聴率は望めないという事情がある。放送作家の鈴木おさむさんは、28日の『バリバラ』生出演で、障害者をドラマ出演させたところ、放映後に多くの批判を受けたという経験を語った。

 鈴木さんは、主人公の友人として車椅子の障害者を当たり前のように登場させたのだ。そこには特に感動すべきエピソードもなく、ひとりのキャストとして。

 批判の声は、「なんの意味もなく車椅子?」「車椅子の人を出すならもっと意味を持たせるべき」……。つまり、障害者が登場するならば、その必然性がストーリー上に求められる。

 障害者が存在する風景は、<日常的ではない>と感じている人がいかに多いことか。いまだに、障害者はさまざまなシーンから隔離され、健常者の目の届かないところでひっそりと生活しているのが、世間一般の趨勢なのだろう。

2016.09.07   Business Journal (風刺記事)


パラリンピック、心からの声援を送りたい

2016年09月10日 03時19分34秒 | 障害者の自立

 南米で初となる障害者スポーツの祭典、リオデジャネイロ・パラリンピックが開幕した。マラカナン競技場で行われた開会式では、「限界のない心」をテーマに障害者競技のさまざまなパフォーマンスが演じられ、先に閉幕した五輪の熱気を蘇(よみがえ)らせた。アスリートたちの12日間の活躍を期待したい。

 障害者競技支える技術

 リオ・パラリンピックには159の国・地域から約4400人の選手が出場し、22競技528種目が実施される。164の国・地域から参加した前回のロンドン大会と比べても遜色のない過去最大規模であり、障害者スポーツへの国際的な関心は高まっている。

 パラリンピックは、医師のルートヴィヒ・グットマンが第2次大戦後の英国で傷痍(しょうい)軍人らのリハビリのために車いすでアーチェリーや卓球を競技することを考案したことから始まった。1948年のロンドン五輪に合わせてストーク・マンデビル病院の敷地で行われたアーチェリー大会は、国際大会のストーク・マンデビル競技大会へと発展し、後に第1回パラリンピックとされた60年ローマ五輪後の大会に23カ国から約400人を集めた。

 第15回となる今大会の競技種目、参加人数の増加ぶりは、医療・福祉の進展だけでなく、障害者のリハビリと社会復帰にスポーツを取り入れた先見の明を示すに十分だ。

 スポーツに不可欠なチャレンジ精神、克己心、緊張感、チームワーク、厳しいトレーニングは、健常者と障害者とを分け隔てるものではない。同じ鍛錬であり、能力の開発であり、人間の力となるものだからだ。

 ただし、競技種目を増やすことを可能にしたのは、障害者競技に必要なツールを開発したメーカーの技術である。競技用の義足や車いすなどは精巧な加工技術を要するものだ。

 車いすだけでもレース用、バスケット用、テニス用など競技種目に応じたスポーツ用品はさまざまな創意を凝らして開発が進んでおり、選手の能力発揮に欠かせないものとなっている。特に義足に関しては、陸上男子走り幅跳びのマルクス・レーム選手(ドイツ)のように健常者の記録を抜くまでになっている。

 パラリンピックはスポーツの新境地を拓(ひら)いていると言ってよい。今大会での選手の活躍が、一層の技術向上につながることが期待される。

 一方、注目度が高まるところで懸念されるのが五輪同様のドーピング問題だ。国際パラリンピック委員会(IPC)は、ロシアによる国家主導のドーピングを受け、ロシア選手除外という極めて厳しい措置を取った。健全かつ健康なスポーツ大会であるべきだ。

 日本の目標は金10個

 わが国は2020年東京大会を控え、リオ・パラリンピックで金メダル10個の獲得を目指している。17競技に出場する132人の日本人選手に心からの声援を送りたい。

 内閣府の統計では国民の6%が障害を持つ。代表して熱戦を演じるアスリートらへの声援が、一般の障害者にも希望となって届くことを願う。

2016/9/09   世界日報


「頼みづらい時もある 白杖シグナル知ってほしい」 人の心がバリアフリーに

2016年09月10日 03時11分18秒 | 障害者の自立

 視覚障害がある人は、駅を使うときに限らず、日常生活でさまざまな不自由を感じている。周囲はどんな配慮ができるのだろうか。

 福岡県太宰府市内のコンビニ。県盲人協会長で全盲の池田精治さん(67)=久留米市=は、ジュースを買おうとICカードを取り出した。手元の白杖(はくじょう)で視覚障害者と分かるはずだが、レジ係は「カードを『こちら』に当ててください」と言う。目が見えないと伝え、カードを渡して読み取り機に当ててもらった。

 店を出て、一口飲んだ。「今日はお茶だったか」。なじみの店で冷蔵庫の場所は知っているが、ずらりと並んだペットボトルの中身までは分からない。店員に聞こうとレジ近くで待っていても客が途切れず、いつも自分で選ぶ。「白杖は目の見えない印。何を探しているか一声掛けてくれるとありがたい」

 コンビニ以外でも、店員の少ない店は増えている。吉松政春さん(62)=北九州市=は「セルフサービスの店では自分で空席を探さないといけない。案内してもらいたいが、忙しい時間帯は頼みづらい」と話す。

 タッチパネル端末で注文するタイプの居酒屋や回転ずし店となるとお手上げだ。客が自分で注文するのが前提なので、店員にメニューを読み上げてもらうのは心苦しく「利用できない」。駅のコインロッカーも鍵を使わないタッチパネル式の新型が登場し、1人では使えない所が増えてきた。

 一方、同じタッチパネルでも、金融機関の現金自動預払機(ATM)は付属の受話器で音声ガイドするなど、視覚障害者への対応が進んでいる。金融庁による3月の全国調査ではATMの82%が対応機器だった。

 スマートフォンはさらに進化し、カメラに写った物の名前や、地図上でタッチした施設名や地名を読み上げるアプリがある。インターネットで情報を集め、衛星利用測位システム(GPS)を使って出掛ける人もいるという。

 ただ「物」のバリアフリー化が進んでも、最後はやはり「人」が頼り。福岡県盲人協会は、街角で困ったとき、助けを待つだけでなく、自ら意思表示する「白杖シグナル」を全国に広めている。白杖を真っすぐ頭上約50センチに掲げるこのSOSの合図は、東日本大震災などを機に認知されるようになってきた。池田さんは「ここ数年で助けてくれる人が増えた」と変化を実感している。

 ●街で見かけた時は 肘や肩を貸して誘導 盲導犬は触れないで

 視覚障害者に声を掛けるときは、いくつか気をつけたいことがある。日本盲人会連合(東京)などにポイントを聞いた。

 街で困っていそうな障害者を見かけたら、いきなり腕をつかんだりせず、まずは声が届きやすい正面から話し掛ける。誘導する時は肘や肩を貸し、半歩先を歩く。白杖を持とうとする人や、体を押したり引っ張ったりする人がいるが、障害者にとっては怖いことだ。

 大きな音も、何が起きているのか見えず怖いので「工事中です」などと周囲の状況を伝えながら誘導すると安心する。段差や障害物は手前で一度止まり、上るか下るかなどを伝えよう。

 盲導犬が、使用者を誘導するハーネス(胴輪)を着けているときは仕事中。集中力を欠くと使用者を危険にさらすこともあるため、盲導犬に触れたり、食べ物を与えたりしない。飼い犬を近づける、カメラのストロボを向けるといった行為も控えよう。盲導犬は信号は判別できないので「青になりましたよ」などと声を掛けてあげると助かるという。

 視覚障害者は、全盲であっても明暗の区別がつく人とつかない人、視力が弱い人、視野が狭い人など、状態はさまざま。どんな助けが必要か具体的に聞き、相手の立場に立って支援しよう。

白杖を掲げてシグナルを出す池田精治さん

=2016/09/09付 西日本新聞朝刊=


パラリンピックの「パラ」の意味 障害者の苦難と希望の歴史がそこにある

2016年09月10日 02時55分32秒 | 障害者の自立

脊髄損傷が死の宣告とみなされていた時代からまだ1世紀も経っていない。第二次世界大戦前は、ほとんどの脊椎損傷者が3年以内に死亡している。そして彼らは死ぬまでの間、ほとんど世間から見放され、忘れられ、人生の敗者も同然だった。

しかし1944年、医師のルードウィッヒ・グットマンがイギリスにストーク・マンデビル病院を開業した時、変化が起こった。ナチスドイツから亡命したユダヤ人のグットマンは神経科医で、下半身不随の治療を志していた。そして、ストーク・マンデビル病院が戦争、特にD-Day(ノルマンディー上陸)で脊髄損傷を負った兵士たちを助けるための彼の本拠地となる。

しかしグットマンは、これまでの神経科医たちと異なり、障害者の肉体面だけではなく精神面に注目した。脊髄損傷を負った人々の最も大きな問題が、社会から見捨てられ、ベッドに置き去りにされ、当然ながら鬱状態になることだと気がついたからだ。そこで患者たちに何か新たなもの、つまり「希望」を持たせるために精力的に動き出した。

それまで勤務していた病院では、脊髄損傷者たちはもう二度と歩けない、死ぬしかない、と言われるのが常だった。しかし、このセンターの看護婦たちには「大丈夫、私たちがあなたを立てるようにしますからね」と言われるようになった。

 
 

「それまでいた病院では、脊髄損傷者たちは決して再び歩けるようにならない、死ぬしかない、と言われるのが常でした。その結果、彼らのほとんどが重度の鬱状態となり、何もやる気が起きなくなるのです。結局何カ月もの間じっとただ横になっているしかないのですから」と、ストーク・マンデビル病院の看護婦ジョアンは回想する。「それが突然、このセンターの看護婦たちには『大丈夫、私たちがあなたを立てるようにしますからね』と言われたのです」

グットマンは患者たちのことしか頭になかった。自分の患者たちを「人間」として扱い、彼らに耳を傾け、彼らには社会の片隅ではなく社会の真っ只中に居場所があるんだということを、世の中の人々になんとか理解してもらう方法はないかと考えた。グットマンの最も重視したルールは、彼自身からではなく患者たちから生まれたものだ。患者たちは「下半身不随の患者が最初にすべきことは、見舞い客を元気づけること」だと言う。

試合、スポーツ、それが我々に必要なものだ。

――ルードウィッヒ・グットマン医師
  

1945年のある日、グットマンは昼食をとりながら突然ひらめいた。彼は患者たちが、杖を使ってアイスホッケーのパックを打っているのを見かけた。グットマンはそれまで、もっぱら患者たちをベッドに戻すことを考えていたが、もっと他にできることがあるはずだと気がついた。彼は「試合、スポーツ、それが我々に必要なものだ」と言ったという。

ほどなくして、患者たちはダーツやアーチェリー、スヌーカーの試合をするようになった。さらにグットマンは彼らを、車椅子ポロ(若干荒っぽくなりすぎたが)や車椅子ネットボールなど、チームプレーの試合をさせてみた。こうした試合を通して、患者たちは自分たちがまだ人間らしさを失ってはいなかったこと、自信を失う必要はないことに気づいた。この試みは成功だった。

「1956年にある患者が入院してきた時、私の目が開かれました」と、グットマン医師団の一人ジョン・シルバーは述懐した。「その患者はストーク・マンデビル病院へ転院するまでに1年半待たねばなりませんでした。ようやく我々の元へ来た時には、さまざまな合併症を起こしていました。身体中床ずれだらけで、腎臓は胆石だらけでした。死人同様だったんです。グットマン医師は、それまでの質の低いスタッフを信頼の置けるチームに変え(彼が全部自分でやりのけました)、その患者を治して世の中へ送り出し、意味のある人生に戻したのです」

やがてグットマンは、さらにもっとできることがあると考えた。1948年7月、ロンドンオリンピックの開会式と同じ日、グットマンは16人の退役軍人男女をアーチェリーの試合で競技させた。これが国際ストーク・マンデビル競技会の初回として知られている。

その後20年にわたり、毎年行われたストーク・マンデビル競技会の種目と参加者は増え続けていった。1949年、グットマンはネットボールを種目に加え、37人が参加した。1950年にはやり投げを加え、61人が参加。1951年にはスヌーカーを加え、126人が参加、そして1952年にはオランダ退役軍人たちが参加して国際ストーク・マンデビル競技会が誕生した。1954年までに、この競技会には7種目の競技に14カ国から250人が参加することとなった。そして1960年までにはストーク・マンデビルからローマに会場を移した。現在ではそれが正式な国際パラリンピック大会の初回とみなされている。当時は単に第9回国際ストーク・マンデビル競技会と呼ばれていた。

多くの人が「パラリンピック」の「パラ」意味を、下半身不随(paraplegics)から来ていると考えている。しかし実際は、この名はグットマンのビジョンに基づいているという説が有力だ。「パラ(Para)」はギリシャ語の前置詞で、「並んで立つ」という意味があり、ここでは「対等」という意味を持つ。

下半身不随選手たちのための国際ストーク・マンデビル競技会で、オランダのドールン出身のジョープ・ドビアが車椅子からやり投げ。

1949年、ルードウィッヒ・グットマン医師がストーク・マンデビル病院の国立脊髄損傷センターで 理学療法士たちを集めて指導する。

ハフィントンポスト   2016年09月08日


障がい者スポーツ 「挑戦する勇気」を応援したい

2016年09月10日 02時51分48秒 | 障害者の自立

「失った機能を数えるな。残された機能を最大限に生かせ」。障がい者スポーツの祭典・パラリンピックの父とされるルートヴィヒ・グットマンが残した言葉だ。ハンディを乗り越えて人間の可能性に挑む姿は、多くの人に勇気や希望を与えてくれる。

リオデジャネイロ・パラリンピックが開幕した。日本から参加する132選手には、思う存分活躍してほしい。同時に、4年後の東京パラリンピックに向けて障がい者スポーツの魅力を伝え、裾野を広げる好機にもしたい。

障がい者スポーツは、障がい部位の機能回復や健康増進に加え、他者との関わりによって日常生活を豊かにするなど、その効果は大きい。

ところが、実際にスポーツに励む障がい者は一部に限られている。一般成人で週1回以上スポーツを行う人は約40%なのに対し、成人障がい者は約18%にとどまる。

原因の一つとされるのが施設面の課題だ。日本パラリンピアンズ協会によると、パラリンピック代表選手の2割が障がいを理由に運動施設の利用を断られたり、条件を付けられたりしていた。トップ選手でさえこうした状況だから、一般の障がい者はさらに厳しい環境に違いない。

車いすや義足によって体育館の床が傷付く恐れや、視覚・知的障がい者のスポーツでは、負傷時のフォローが難しいことが理由のようだが、自治体など施設管理者と利用者側が協議を重ね、障がい者に門戸を開く道筋を見いだせないものか。

また、障がい者専用の公共スポーツ施設として「障害者スポーツセンター」があるが、全国で114カ所(2013年現在)にとどまり、利便性の悪い施設や老朽化に直面している施設も多いという。同センターの増設や改修も課題の一つだろう。

併せて、障がい者スポーツを後押しする人材も育成したい。日本障がい者スポーツ協会が公認する「障がい者スポーツ指導員」は、全国に約2万2000人おり、20年までに3万人に増やす目標を掲げている。資格の周知や研修の充実など、支援が必要だ。

多くの障がい者がスポーツを楽しめる環境づくりへ弾みをつけたい。

公明新聞:2016年9月9日