数日の不安定な天気乍ら、気温は暖かく過せ夕方からの暖房に安堵している。布団と部屋の除湿は行い、掃除は窓拭きに適す。一昨日から、歩行困難に陥り痺れを伴う痛みに枇杷葉温圧療法を施行する。庭に出れば枇杷葉生葉があるのは有難く、数枚を捥いで治療とした。
一晩経ち、今朝は歩ける回復に感謝を。略見当はつくのだが、これは憑依されたものと近所の方の症状当て嵌まる。自然からの威力を侮ると、我が身に降りかかると話したのを聴いていない。我が家の枇杷葉を差上げた為に取り扱い云々で、循環して結果に転じてしまうのだわ。
ナルニア国物語、映像の始まりはドイツの戦闘機が飛び主人公の住む場所に投下される。この場面を観て、恐い?と思うか歴史の背景を親は子どもに話せるかで視点は変わると思う。史実と事実を正しく理解してこそ、物語が書かれた意図も理解できるように学びたくもある。
その後のナルニア国物語は、銀の鈴が映像化されていなくて待つ心境に。前作の主役連や監督の趣きも変化してだとしても、原作には違わぬ手法で観たい。主人公との繋がりは切れず、宗教からの描き方だが神は同一なのよ。時代を生きることは、逝くことにも通じて来て。
庶民は、その日のことで精一杯なら先に進み後も見返らない。三度の摂取を二度に倹約しても分量や元手の違いから、実質的には変わらず。野菜の類も、根魂は捨てず事前の遣り方工夫をして凌ぐ手はず。じゃが芋等は皮剥きせず、茹でたりそのままを戴かれるのは有難い。