「いつのまに…」「いつのまにか…」と、思うことが世の中多々あるが
日々の生活の中ではわかりにくいのだが
これが「社会の仕組み」とか「体制」「規則」「考え方」「思想」とかになるとややっこしいもので…
世の流れというか、考え方が目まぐるしく変わるもんだから、“忘れたころに”“そういえば”なんてもんがまかり通って
「いつのまに」「いつのまにか」というもんが、どしどしとあらわれることになる。
後世になって遭遇しているそんな事象が歴史のページを(自分たちはわからないが)飾るかもしれない。
これがかつての国家、独裁性高い国家の一時的な隆盛と滅亡をまさしく目の当たりにしているのかもしれない。(その場に遭遇している人間にはわからないが…)
日々の生活・営みの中では(少しずつ変わるので)わかりずらいが、大局に立ってふりかえると確かに物事・思想が動いているのだ。
それがゆくゆくは我々の生活に何らかの影響を与え、それが「宿命」となり「運命」となっていつかはあらわれるかもしれない。
現状に少しでもかかわる意識・関心を持ち合わせることをしなければ…。
「いつのまに…いつのまにか…」がすでに動き出しているなか、もう後戻りはできないのだから、ただ傍観しているだけではたしていいのだろうか
最近の“あきれるばかりの”政局に目を伏せながら、ふと思いちょっと自問自答してみた。
自分たちが「なにかする」こと、あきらめたくなるような閉塞感が満載だが、「なにもしない」よりは「すこしでもなにかする」ほうが健全のような気がするのである。
日々の生活の中ではわかりにくいのだが
これが「社会の仕組み」とか「体制」「規則」「考え方」「思想」とかになるとややっこしいもので…
世の流れというか、考え方が目まぐるしく変わるもんだから、“忘れたころに”“そういえば”なんてもんがまかり通って
「いつのまに」「いつのまにか」というもんが、どしどしとあらわれることになる。
後世になって遭遇しているそんな事象が歴史のページを(自分たちはわからないが)飾るかもしれない。
これがかつての国家、独裁性高い国家の一時的な隆盛と滅亡をまさしく目の当たりにしているのかもしれない。(その場に遭遇している人間にはわからないが…)
日々の生活・営みの中では(少しずつ変わるので)わかりずらいが、大局に立ってふりかえると確かに物事・思想が動いているのだ。
それがゆくゆくは我々の生活に何らかの影響を与え、それが「宿命」となり「運命」となっていつかはあらわれるかもしれない。
現状に少しでもかかわる意識・関心を持ち合わせることをしなければ…。
「いつのまに…いつのまにか…」がすでに動き出しているなか、もう後戻りはできないのだから、ただ傍観しているだけではたしていいのだろうか
最近の“あきれるばかりの”政局に目を伏せながら、ふと思いちょっと自問自答してみた。
自分たちが「なにかする」こと、あきらめたくなるような閉塞感が満載だが、「なにもしない」よりは「すこしでもなにかする」ほうが健全のような気がするのである。